HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。
  
| 食べ物 | - 2008/12/25
- コーラを最初に飲んだのは中学2年の時だった。
いつも、親の財布が入っている引き出しの中を探し、財布から漏れている小銭を拾い集めては、5円10円を持って、駄菓子屋に通っていた。どうでも良いようなオマケが目的の、クジをひくためだ。 中学生になってからは、レベルが上がり、クジは買わずにジュースやらラムネやらを買うようになっていたので、相変わらず、店のお得意さんだった。 ある時、「こんなの飲んで見ない?ウチの子も飲んでいるよ」と小母さんに言われ、そのウチの子に負けたくない一心で、ハイッと買ってしまった。 30円か40円だったか?
今まで見たこともないよな、ヘンな形の瓶だった。 今のようにしっかり冷えてはいない、コカコーラを自分の部屋で飲んだ。 従来にない炭酸の量で、飲んだ後、湧き上がってくる炭酸で胸が痛くなった。 コカコーラというのは胸が痛くなる飲み物だと知った。
アメリカから来た、今までにない未知の味の飲み物、という事が私の心を刺激した。空き瓶を持っていくと、瓶代を返してくれるのも、気に入った。 以来、コカコーラ販売戦略に負けた私は、コーラは好物になって、今に至る。 化学の味に、自然食が負けた時だった。
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| 昼 | - 2008/12/24
- 昼、近くのそば屋に行った。
女将が「今、ちょうど小豆煮にたんだけど、味見する?」 甘党の私は「する、する」
そばの後、味見というには小鉢に山盛りの、デザートとして十分な量の小豆をたべながら、「だったらお汁粉にしてもらえば良かったな」 「あんたは、何いってんのよ。この忙しい時間に」 「いや、たとえだよ」 「あ、そうかい。だったらね今夜遅い時間に来な。それなら作ってあげるから」
という訳で、クリスマスなのに、今日オイラは、そば屋にお汁粉食べに行くわけ?
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| 食べ物の事(おかず) | - 2008/12/23
- 子供の頃のご飯のおかずは、季節によって、毎日同じ物ばかり出た。
家の裏に、味噌部屋があって、そこに味噌、沢庵、梅、白菜などの樽が置いてあるので、そこから一食分を取って来て食べる。 冬は白菜の漬物。 私は芯のシャキッとした所以外は好きでなく、芯ばかり食べていて、いつも親に怒られていた。
春は、山で取れた山菜だが、早春は竹の子。煮物、味噌汁、煮物、味噌汁と日替わりで順番に出てうんざりした。 山に新芽が出る頃は、ワラビとゼンマイ。毎日、毎日、ワラビの「おひたし」が出た。ウチの工場で働いていた人達が、仕事が終って晩御飯を食べにきていて、「今日も材木か?」と笑っていた。 切って積んであるワラビの姿が、貯木場に積み上げた材木を連想させたらしい。
夏は庭の畑で取れる野菜。毎日茄子と胡瓜。 田舎では胡瓜は薄切りにしない、なぜなら、神社のご紋が胡瓜の輪切りに似ているからだとか。それでハスに切ったり、乱切りにしたり工夫する。 それでも胡瓜は胡瓜。
大根が出る時には、毎日大根の味噌汁。
母親が料理が得意でなかった事も大きな要因だが、毎日の食事が不味そうで仕方がなかった。 しかし、いま考えると農薬はもちろん、化学肥料などもほとんど縁のない食事で、自然食ともいえるほどだった。
弱いながらも、今ある健康はこの時のお陰かもしれない。
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| 食べ物の事(干柿) | - 2008/12/22
- 中学の頃、私は、私の住んでいる部落が甘柿の北限と考えた。
なぜなら富有柿はそれより北の村や町では見たことが無かったからだ。 ある意味、富有柿や治郎柿が取れる場所に住んでいる村が、個人的には密かな自慢だった。 なんといっても「柿は果物の王様」だという祖父の間違った意見を、私はそのまま踏襲していたからだ。
という事から考えていくと、世の中のほとんど柿は渋柿という事になる。
秋も寒くなった頃、柿の収穫は行われる、今のように高枝切鋏はないので、長い竹の先を二つに割った専用の道具で、柿の付け根を挟んでクルっと回すとポキッと折れて取れる仕組み。柿が入った重くて大きな籠を背負って家に帰ると、夜なべして、家族総出で柿の皮を剥く。
皮剥きは必ず子供も手伝わされる。 祖母の口癖で、りんごの皮は大人が剥き、柿の皮は子供が剥く、と。 要するに、りんごは皮を厚く剥いたら勿体無い。しかし柿だけは渋が皮の周辺に多いので、皮は厚く剥いた方が良いのだと、だから不器用な子供でも薬に立つという意味。
藁をナッて作った干柿専用の縄に、10センチ間隔程に柿を付けてゆく、それを軒下に吊るして干す。軒下には柿を付けた縄が、家の幅一杯にスダレのように並ぶ。 ひと月も干したであろうか、干しあがった柿を取り込み、形を整えながら寒い所に置いているうちに白い粉が噴いてくる。それが出来上がりで、正月のおやつになる。 シャキッとしてほのかに甘い甘柿に比べ、手間がかかる割には、ヘンな甘さの柿が私はあまり好きではなかった。
思い起こすと、同様に軒下に干してあった物に、大根がある。 沢庵にする大根を収穫して干すのである、これも一列に並ぶ。 また、味噌を作るため、大豆を茹で、機械でつぶした物を両手で丸めて縄に通して、これも吊るす。カビが生えてきた頃を見計らって味噌に仕込む。 やっぱり軒下一杯に並ぶ風景だった。
軒下一杯につるされた風景は、子供心にも本当に田舎臭く見えたが、悪くない。干すというのが日本の日持ちする料理の基本なのであろう。 安心感のある、良い風景だった。
しかし、私が中学、高校と進む頃に、ウチではこういう事は全てしなくなっていた。面倒な事を指揮する祖母も動けなくなっていたし、店で買った方が早いからだ。素朴な漬物は化学調味料の味のする漬物に代わっていった。 今、韓国でキムチを漬ける家がなくなったというニュースを聞くが、正に日本だって、そういう歴史だったのだ。
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| 食べ物の事(餅つき) | - 2008/12/21
- 子供の頃の甘い物はほとんど、家で作った餅とアンコ系しかなかった。
だから餅は大好物だった。
正月が近づくと、どの家でも餅をついた。前日から水に浸してあるもち米を1升ほど入れたセイロを重ね、朝から釜戸で蒸す。 あちこちの家の戸間口から湯気が立ち上るのが見え、近所に活気があふれる。
蒸し上がったら、母親がそれを臼に移すと、父親が杵で捏ねてから、ドンドンと撞く、母親は手反す。 つき上がると、熱いそれを一気に持って、大きなのし板にどさっと乗せ、米粉をかけながら伸ばす、その伸ばした餅が、何枚も積み重なっていくのが、子供心にも頼もしかった。夕方か翌朝に冷えた餅を四角に切る。 飾り用の、のし餅だけは父親が丁寧に丸くしてゆく。
大して儲かってもいない木工所の仕事が忙しいとかで、飲み歩いているばかりの、父親の言い訳で、ウチだけ餅つきが遅くなった。 餅つきは末広がりの日が良いとかで、どこの家でも26日、28日についた。29日は苦をつくというので、忌み嫌われた。 すると我が家では30日につく事になる。近所の笑われ者だが、それも仕方ない。なので、小学5年生くらいから、餅を食べたい一心から私が餅をついた。 時々、立ち寄って見に来た男の人が、「頑張っていても、やっぱり子供で力が無いから、ちゃんと撞く事が出来ない、イボロが出来ている」と批評されてしまうが、お構いなしでがんばった。 イボロとは、米粒が残っている状態をさす。沢山餅をつくので、中には意識的にイボロ餅を作る事もあるが、それはそれで難しい。 種類となると、草餅、豆餅など多種多様。
餅は醤油、黄な粉などが普通だが、アンコがある内はお汁粉にして食べた。
両親が共稼ぎをしている隣の家では、三時のおやつに、揚げ餅に砂糖醤油を沢山付けて食べていたが、今考えると小学生の子供達だけで、大量の油を火に掛けたものだと、ちょっと恐ろしくなるが、当時は普通に毎日やった。 餅を食べたいのが半分、遊びたいのが半分で毎日その家に遊びに行き、ちょっと手伝っては餅を食べさせてもらった。晩御飯が入らなくなるほどよく食べた。 という事は、ウチにはおやつが無かったのかもしれない。
そのときの事を、一度に6個食べたと、私が大きくなっても言われ続け、閉口した。当時は、最近スーパーで売っている切り餅の2−3倍の大きさだったから、今考えると恐ろしい食欲だったかも。
餅こそ、最高のごちそうであり、デザートだったのだ。
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| 食べ物の事(いかの酢の物) | - 2008/12/20
- 私の田舎の食べ物の一つに「烏賊(いか)の酢の物」がある。
これは、「塩烏賊」を戻し塩抜きしたものにキウリの薄切りと一緒に、酢で合えたもので、田舎にいた時には当たり前の食べ物だったが、東京に出てきてみたら、そんな食べ物は一度もお目にかかった事がない。 当時は、長野界隈だけの食べ物だったに違いないが、今の事は知らない。 当時はびっくりしたというか、食べた事を隠しておきたい食べ物だった。
以前、聞いた話によると冷蔵技術がない昔、日持ちするように、いかをまず茹でて内臓を取り除き、これを塩に漬けて箱詰めしたものらしい。 子供の頃は、烏賊と言えば、これだった。
当然、烏賊の刺身など食べた事がなかった。 烏賊の刺身は東京に来て初めて食べたが、正直クチャ・クチャして気味悪かった。 生きたまま運送する技術が確立した事もあり、東京でも烏賊の刺身がコリッとして美味しくなったのは最近の話だ。
今となっては、時々食べたいと思うことはある。 パリに住んでいる姉に会った時、時々食べたいね、と話しに出てくるのが、可笑しい。
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| 食べ物の事(朴葉巻) | - 2008/12/19
- 昨日の続き。
もう一つは、ほうば巻(朴葉巻)
私の田舎では端午の節句は一月遅れの、6月にあった。 その時に、朴葉巻をつくる。 「朴の木」の葉っぱが6月になると大きくなる、大きくはなったが、まだ柔らかい、その葉っぱを山から取って来る事から料理は始まる。 米の粉を練って手の平くらいに広げ、前日から煮ていたアンコを中にして、米の粉で包む。 大体一握りほどの大きさである。 それを朴葉で包み、イグサで結わく。 それを一枝分作ると1セット出来上がりといった按配。 それを蒸し器で蒸す。 多い家では4−5段も作る。
朴葉の香りが移ったアンコ餅だが、コレが無いと節句にはならない。 鯉のぼりでもなければ、人形でもなく、これだけあれば節句の用は足りるのである。 友達同士で、「今日は、おれん家で朴葉巻が出来上がっている筈だ」と自慢すると、みんなでくっ付いて行って、伯母さんに一つづつもらって食べた。 私の母親があまり料理が上手でないせいか、大雑把なせいか、たいがい友達の家の方が美味しかった。
近所の中でも私の家だけ、朴葉の他に、庭に植えた柏の木から取った葉っぱで柏餅も作った。それは祖母が、「朴葉巻は田舎臭い、だから柏餅が良い」と言っていたからだ。 その根拠については、何故だか分からない。 しかし、私は朴葉巻の方が男らしく感じて好きだった。
一度、食べたい一心で大雨の日に、吊り橋を渡って友達の家に食べに行き、雨がどんどんひどくなってきて、その父親が心配してくれて、一緒に付き添って歩いて家まで送ってくれた。 翌日学校で先生にその話しがバレて、クラスの笑い者になった。
一番の好物だったので、食いしんぼの私は、そこまでしても食べたかったのだ。
追) 長野県や岐阜県には、枯れた朴葉に味噌乗せて焼いて、酒の肴などにする朴葉味噌という物がある。ウチの田舎も貧しかったが、朴葉味噌は食べなかった。朴葉が取れるのに何故食べないのかと、母親に聞くと「そこまで貧乏ではない」という事だった。だが、怪しいものである。
基本的に味噌を乗せるのは小さな葉っぱで用は足りるが、餅を包むとなると大きな葉っぱが必要になる。南の島のバナナの葉っぱで包んだポイ(?)というものと同じ作り方のような気がする。
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| 食べ物の事(五平餅) | - 2008/12/17
- 私が生まれた田舎の、代表的な食べ物がある。
一つは五平餅 一つは(ほおばまき)朴葉巻。
秋、米の収穫が終ると、近所の稲刈りを手伝ってくれた人たちが集まり、五平餅を作った。 米を適当にスリコ木でついて、割り箸をもう少し薄くしたような棒にくっつけて、炭で焼く。 焦げ目が着いたら、胡麻ダレにつけて軽く焙る、これを何度か繰り返すと、胡麻ダレがボッテリと厚く着いた五平餅が出来上がる 私の田舎では、ご飯は小さく丸めたものを1串に3つほど着ける。 高速道路などで見るものは、一つも大きなご飯が着いていて、ちょっと大振りである。 タレは2種類あって、一つは胡麻、もう一つ「荏」と呼ばれるタレ。家によっては胡桃ダレもあるらしい。 私は荏のタレが大好きだった。 あるとき調子に乗って食べ過ぎて、お腹をこわし、翌日学校を休んだ記憶がある。母親に「いやしい者はくやしい」とお説教された。
五平餅は長野だけでなく周辺でもあるらしく、高速道路のPAでもあちこちで見かける。見つけるといつも一本買って食べる。 しかし美味しいものにはあまり出合ったことがない。 私の味覚が変わったのかもしれない。
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| 中華街 | - 2008/12/16
- 東京に出てきて、1・2年ほどして、ようやく友達も出来てきた頃、皆で横浜の中華街に行った。
多分、言ってみたいと言い出したのは私だったような気がする。
安そうな店を適当に探して、中に入ったが、何を注文してよいか分からない。 なんたって、それまで中華料理を食べた事が無かったから。 料理の名前すら知らないし、想像もつかない。
だれかが「天津麺」と言ったので、私も慌てて、「そ、それ!」と同じものを注文した。あまり高そうではなかったし。
やがて天津麺が出て来て、食べた時のその美味しさ。 美味しかったの、なんのって。今でも忘れていないのだから、余程美味しかったに違いない。 麺の上に乗っているのが、かに玉だと、その時友達に聞いて知った。
東京っていいな、と思った。 19歳だった。
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| クリーム・ソーダ | - 2008/12/15
- 前の会社の初代社長に聞いた話。
この社長は、昔どこで何を食べたという話もしっかり記憶していた。 クリームソーダは19歳のときに初めて飲んだといっていた。
当時、東大生だった時に、東急の五島昇が高校生だか中学生だったかで、彼の家庭教師をしていた。おじさんと五島慶太が、同郷でまた東大出身でもあり友人だった縁だったから。 なかなか頭は良かったが、さすがに我がままな子供で、勉強に飽きると、「おい!出かけるぞ!」というので、一緒にくっついて外出すると、女中さんがさっと財布やら小さな荷物を持って後から着いて来る。 さっと店に入り、欲しい物を見つけると、「おい、これっ」と言うと女中がお金を払う。という豪快な買い物だったと。
あるとき、銀座の、多分資生堂パーラーだったと思うが、そこに行き、「クリームソーダ」という。 お前も何か飲めと言われたが、分からないので「一緒でいいです」と言った。
そのとき、「初めて飲んだクリームソーダが、甘くて美味しくて、忘れられない」と言っていた。 19歳だったそうだ。
私が「コーラ・フロート」を初めて飲んだのは19歳だった。 その時、どこか忘れたが、新宿で知り合った女の子が、親と喧嘩して家を出たとかで、行く当てがないと言うので、私のアパートに一晩泊めた。 すると連絡を聞いた父親が翌日、娘を迎えに来て、一緒に新宿の丸井の地下のパーラーで話しを聞かされながら、注文してくれたのがコーラ・フロートだった。 父親が「二人が好き合っているなら、結婚を前提に学校を卒業するまで付き合ってくれと」言われたが、関係も何も全くない子と結婚などと言われて困った。 女の子に、話しを合わせてくれと言われて、適当に相槌を打っていて、大変疲れた記憶がある。
同じ食べ物の記憶でも、同じ19歳でも、社長と私とでは、エライ違いだな。
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