HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。

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スペースシャトルのタイル
2011/07/13

思い出した事があったので、島田先生の話の続きである。
一度で思い出さない所が私の良い所である。?

先生は宇宙船スペースシャトルの断熱タイルの開発をして、頑張って作っていた。
お金にならない話である。日本人なのですぐお金の話になっていけない。
金の話は置いといて。モトヘ。

小さいながら日本でも、アメリカと同様に宇宙開発計画があった。
よってタイルは重要な開発要素であった。例のコロンビア号の事故だって、断熱タイルの剥離も一つの原因とされていなかったか?

先生はそれで、苦心惨憺タイルを作った。
米国製は一枚200万円なのでそうだ、それがスペースシャトルのガワに貼って行くと、1機に付きなんと36,000枚必要なのだそうだ。
豊かな国は違う、膨大な予算だ。
日本の各社は宇宙開発の仕事を受注したいばかりに気が焦って、アメリカから技術をもらって来てつじつま合わせをする方法を取ろうとした。製造設備も買ったところがあるらしい。
中国の技術は借り物などといって日本では喜んでいるが、余りやっている事は変わらない。
話を戻して、地道に研究した先生のタイルは20万円で優秀。企業としては面白くないかもしれないが、国民として一気に希望が膨らむ。

比重がアメリカ製に比べ約半分。先生は自身が作ったタイルを持参して、アメリカの宇宙開発の専門部署に呼ばれ、行って先方様に見せた。
その自信作のタイルは、比重・耐熱性などいかにアメリカの現行品より優れているかが検証されて先生はホッとした。では、これを使って下さい、という話になった。所が「優秀さはよく分かった、我々の物より軽く熱にも強い、しかしこういう物は自国で開発して、自国の物を使う事に意味がある。残念ながらそれはあなたの国で使ってくれ」といわれたそうだ。
はい買います、でもこれは我が国で開発したなどと偽って特許を取るどこぞの国とは違う。
国の最先端の技術開発を担うという事はそういう事なのかと、アメリカ人の心意気に感心したそうだ。
これまた、技術や技術者を大切にしないで他国に簡単に技術を売り渡してしまうこの辺りの政府の指導者に聞かせたい話である。
実際調べると、日本の企業でもこの技術に関して沢山特許を取得していて、大体繊維が素材になっているが、先生のは無機物から作る、陶芸家だから出来る話である。特許も取らずに。

その後紆余曲折があり、残念ながらアメリカのスペーシャトル計画は終焉を向えた。アメリカといえど金が無いしね。
日本でも二番ではいけないかのかという議員も出現して、宇宙開発予算も縮小されれ、スペースシャトル計画は幻となった。
もちろん今後も、宇宙計画は続行され、ロケットの先端部分がパラシュートのぶら下がって帰還するそうだ。私はスペースシャトルが帰還して、空港に降り立つ姿に惚れ惚れして、ニュースを見ても拍手するのだが、パラシュートでは拍手はしない。早くも優雅な姿は消えた。

大きな宇宙に向けての、小さな一歩は、小さいままで行きそうだ。
ともあれ、結果的に先生の仕事も封印される事になった。

今の政府は子供手当は作るが、こういう予算が削られる。それでは日本将来が心配である。実に残念である。

私が言っても仕方ない事は良く分かっている。

青ついでに
2011/07/12

今朝のテレビ。地井さんの散歩の番組で、下町の雨に咲いたアジサイの青が綺麗だと盛んに言っていた。
確かに、はらはらと雨粒が付いた青はきれいだ。

「青」という色は非常に広い範囲で「青い色」として日本人に好まれてきた。
空の青、海の青、植物の青から紺、藍、等々に及び、また人の好みも多岐に渡る。
日本人は緑まで青に入れ、その範囲は広い。

画家フェルメールの絵の、見事に浮き出た青色は当時金にも匹敵すると言われた高価な石ラピスラズリを原料とすると聞き、とんでもない金が掛かった絵もあるものだと感心。

かつて、パーレビ国王の時代にイランに行ったときには、モスクの中の青い色の目を突き刺すばかりの青の凄さに、宗教の力を見たようで驚愕した。

当店はジャズのレコード屋であるから、ブルーノートのジャケットの青の色には一層興味深い。Tina Brooks「True Blue」はじめ、ジャケットの青い色の種類の事は一度日記にも書いた。肌の黒さをブルーであるとし、音楽のブルースとも掛けて、ジャズはブルーという当時の音楽家たちの心意気も素敵である。

また、「藍」の深い青に惹かれる日本人の好みも興味深い。
私の叔父はいつも、子供の頃家で母親たちが染物をしている時の「藍」の色が忘れられないと話していて、晩年、自費出版した句集に「紺のにおい」という題を付けたほど、愛着があったようだ。

また当店のお客様で、50年代に父親の仕事で滞在していた頃のアメリカ東部を映したネガが出て来たからと写真展を開いた方がいた。その個展を見に行った時ちょうど50年代の道路の写真が沢山あって、そこには当時のアメリカ車の青い色が再現されていて、ちょうど会場に来ていた人たちと盛り上がった。それは青い色が現代の様な青ではなく、やや黄色が混ざっている感じで、当時のアメリカ映画のコダックの青の色の発色もそうだったという事になり、昔は良かった話で落ち着いた。
5・60年代のアメリカの青は実に温かみのある、社会の余裕を感じさせる良い色合いであった。

兎に角まじめにいうと、日本人の青の基調は、若竹から芽が出て、すっと伸びて行くときの青色なのだそうだ。青々しいという若さというか、幼さを愛しむ、優しい心がある日本人の表れなのであろうか。

こうして思えば、趣味として我々のようにただ色や形を楽しむ者には「面白い」で済むが、作る人たちに側にとっては「命がけの青」なのである。

そうすると、なんだか余計に面白いね。うん。

7月は
2011/07/11

梅雨が明けて、今日も暑い夏の日。
休まないといけない。


 七月は 脳を休めて 水飲んで

島田先生の事(続)
2011/07/10

島田先生の事を書いたので、青磁について。
私の父親は骨董狂いで家を破産に追い込んだ事は以前書いた。私は子供の頃から父親が毎晩一人で書画骨董など「ウーンいいなあ」と唸っているのを横に座って見ていた。だから陶器などはな好きであるが、青磁はあまり好きではない。生意気にいうとどうも青が安っぽい。

所が、汝窯の青は全く異なる青なのである。
一言でいうと異質な陶磁器である。

青磁とはネットで検索すると、大概こういうふうに書かれている。
「透明感のある青緑色の磁器で、紀元前14世紀頃の中国が起源とされ、 製造技術は韓国や日本にも伝播して東洋陶磁史の根幹をなした」と。
南宋の龍泉窯などが元になっている。

所がその以前、北宋の1100年前後のわずか20年程の間、北宋の徽宗皇帝(きそう)が命じた磁器があり、特別な皇帝のための窯、官窯がつくられた。それが「汝窯(じょよう)」である。そこで焼かれた青磁が最高とされ、日本人が喜ぶ価格の話をすると大小に関わらず億単位の価値で世界で71点が現存するのみで、破片にすら価値が付くのである。凄いでしょ。
徽宗皇帝の死後なぜか技術は絶える。
以後再現した人はなく、有名な乾隆皇帝の時ですら皇帝の命により再興に力が注がれたが、ついに完成に至らなかった。そして現代に至るのである。
実は噂によると、周恩来が命じたらしいのだが、やはり技術の再興はならなかったようだ。お隣の国韓国でも一応トライしてみたいと思っていたらしい。
無駄な努力とされている世界の所以である。

その汝窯の青磁の青の色とはどんな色かというと、「雨過天青雲破処」という、それはありがちな、後世の口の上手い評論家が気分で付けた。いやそうではなく、徽宗皇帝本人が私の使う食器はこういう色で作れと命じ、表現がそうであった。
「雨が上がった天の青さで雲が破るる所なり」、真夏の青空などというアッケラカンとした青ではなく、雨が去り、そして雲の間から、空の青い色と雲の白色とが混ざり合ったというか、「白が去りゆく瞬間」の色という、困難な表現の美意識を突き付けられた職人たちはどう答えたのか。
私なら馬鹿野郎、辞めてやる、となる所だ。

実際、窯の跡を見に行った先生は、失敗した破片が積まれた山は、本当の山と全く同様で巨大で、それが二つもあったと。本当の山だそうだ。筑豊のボタ山がもっと大きいのを想像する。
そこを掘ると破片が出てくる、現代十分通用する立派な色の破片であった。それが当時徽宗皇帝または職人には失敗作と写っていた事が分かったと。
冗談ともとれる美意識である。一度冗談に「先生、その徽宗ってそれほどの美意識の持ち主だったんですか」と聞くと「もちろん、この人は絵、字、にも並々ならぬ美意識があって、文字ほ形まで自分で作って国に広めたた人だよ」と。文字の形を作った。それに対しては「!?」こういうアクションしか取ることが出来ない。
後で色々調べた所、残った作品群が示している。これでは青磁は良くても、政治はだめで、国は荒れ人心は乱れたと。

尚いうと、皇帝のテーブルは漆である、漆と言えばチャイナという通り、漆もまた高級で、茶碗の高台にも薬を掛けないと、漆に瑕が付くのである。要求が高すぎて部下が付いて行けない典型例だったかもしれないが、成し遂げた人達がいたわけだ。
恐るべき美意識の権化の皇帝。

現存71点、その後の技術は途絶えた、という事を聞けば、当時の職人たちの苦労は伝わってくる。本当の美しさとは決して押しつけがましくない。
中国と言えば金銀ギラギラの皇帝のイメージがあるが、本物は違う!
この汝窯の青磁がそう示している。

その青磁を再現した先生はやっぱりエライ!
(写真は先生が到達した、いや当時を超えたと断言できる作品である。故宮博物館ですり替えて展示しても、気が付く人はいないと断言する。機会があれば見て欲しいのだが。)

島田先生の事
2011/07/09

 お客様の事は、プライバシー侵害と私の文章の下品さにより迷惑をかけて仕舞う事が目に見えているので、日記に書かないようにしているのだが、この方だけは書いておきたい。

「島田幸一」のこと。陶芸家であるが、青磁の世界では日本一の作家である。いや世界一エライのではなかろうか。
二年前に新宿紀伊国屋で個展が開かれたのだが、大英博物館と台湾の故宮博物館が興味を持って来たというから、世界的な驚異だったのであろう。

最初にお会いした時はスペースシャトルのタイルを作っておられて、私もその映像を確かNHKで見たので科学的な方だと知っていて、エライ先生なのだと思っていた。
所が本職は陶芸家でそれも専門が青磁だと聞き、失礼ではあるが、こりゃ駄目だと思った。
なぜなら陶芸家の中で、青磁だけは目指すなという言葉がある。青磁特に「汝窯(じょよう)」に魅せられてその道を目指したとて所詮敵わぬ、最後には破滅人生が待っているだけ、という意味である。冗談ぬき。
私も父親譲りの骨董好きなので、そういう浦知識はある。

それがよりによって先生は青磁専門なのだと。 それも汝窯青磁なのだと。先生それは無理でしょ、と思わず大笑いして突っ込みたくなる人生の遠大な計画に私の頭はクラクラした。

それが一昨年に完成品を並べた個展会場に足を踏み入れた時、かつて実際に見たことのない、それはそれは上品で、派手さの無いそれでいて極めて美しい青磁の数々を見るのは夢心地であった。興奮して顔から汗がびっしょり、心臓がドキドキしたのである。そんな展覧会はめったにお目に掛かる事はない。

先生は芸術家でありながら、科学的な分析から考察し製作を行う、実に珍しい「科学者的芸術家」或いは陶芸科学者である。話が非常に科学的で分子記号がバンバン出て来て、話を理解できるのは東工大の教授か大学院の生徒だけである。陶芸家よりも工業の先生という感が強いのである。
他の有名な陶芸家にも会いに行ったらしいがレベルが低すぎて話にならなかったと憤りを隠せぬ先生は、いつも孤独で制作に励んでいる。
そしてセンサーとコンピュータを駆使して焼く。

それでも聞くと、青磁のこんな作品が出来上がるのは確率1%強であると。
窯で、苦心の末100個焼いて1個?、200個焼くと2個....。
たった1個?2個?
先生、それはあまりに.....。

故宮博物館のキューレターがわざわざ遠くからアトリエに訪ねて来た理由もわかる。
「他の作家さんはもっとお金儲けしてますよ。先生、辛すぎません?」と尋ねてしまったのである。

先生は昭和50年頃、不運な事に、冗談ではなく不運としか言いようがないが台湾の故宮博物館で汝窯の青磁に出会った。
滞在中、毎日通ってひたすらそれを見続けた。
滞在最終日、館の責任者が出て来て声を掛けてくれ、キューレターから申し出があり説明を受け、そして遂に館長が出向いてくれた。なぜか食事をご馳走され励まされたそうだ。
それから脱サラして陶芸家になった経緯である。
向こう見ずな事、日本人の中でもトップに違いない。

その後の事は困難の連続である。
材料がもう無い。薪だって日本に無い。
それでも全ての困難を明るく笑って話してくれる苦労話は数あるが、多分奥様はその数倍言いたい事があるに違いない。

言いたい事を言って、すみません。

アッキーナ来店
2011/07/08

南 明奈(アッキーナ)さん来店。
ちょっと前の事だったので、もう書くのを止めようと思っていたのだが、やっぱり日記に書こう。

可愛い方でした。
カメラマンに「笑って下さい」と言われると、ニコッとする笑顔が流石芸能人。
なんであんなに可愛い笑顔になれるのでしょう?
不思議。
やっぱり元々可愛いんだ。

赤塚不二夫
2011/07/07

ちょっと前に「ベシ」の始まりを書いてしまったので、スイッチが入ってしまい、ついでに書きたくて仕方が無かった事があって、今朝、写真を撮ってきた。

それは新宿に赤塚不二夫が書いたと言われる看板があるから。

「ふぐ」と書いた、ふぐ料理屋の看板。
先生が贔屓にしていたみせだとか。
地元では美味しいとの評判である。

私は、まだ行った事はない。

クレームの事
2011/07/06

団塊の世代はクレームの世代だと私は思っている。

実際、他からそう指摘されると私も悔しいが、それは結構当たっている。

クレームという言葉が流行ったのは、私が学生の頃である。流行ったというとちょっとオカシイが流行ったとしか言えない程、広まった。私も友人から「クレームを付ける」という言葉を教えてもらった。

喫茶店やレストランなのでちょっとでも違う事があると、同級生たちからクレーム付けろと指摘される。購入した商品にちょっとでも不満があるとクレームを付けるのが当たり前だと指摘される。

市民は高度成長と共に電化製品・自動車など次々と購入した。お客様は神様、と言ったどこぞのデパートの社長の発言がテレビの画面から流れ、金を使う事に国民が狂った時代である。
だが商品に当たり外れがあるのが当然である。
企業は声の大きい人に商品を取り換えるとか、何かを付けるとか、更に値引きをするとか大袈裟なクレーム処理をしてきた。クレームを付けると何かいい事があるように思えてきた。
購入した自動車を取り換えさせた等という自慢が至る所で聞いた。
だから、そうでない人はクレームも付けられない駄目なヤツとされ、クレームが成功した人は仲間の女子から頼りにされた時代でもある。
またどこに行っても、多数によるわがままが通るようになった事を知った世代でもあり、クレームとは美味しい事、を学んだ最初の世代だったのかも知れない。

それだけに沢山のお金を使い、若いうちからマンションを購入し、一生懸命に働き遊んだわけで、活発な経済活動に貢献した世代ともいえる。ある意味エライでしょ。

団塊の世代
2011/07/05

団塊の世代の事。

最近パソコンの書き込みでも団塊世代への悪評はバンバン出てくる。
 私の知り合いも、例の地震のあとガソリンが無くなって来て、みな少しづつ並んで購入している時に、近所の団塊世代の親父がクルマを変えて3回並んだとか。
 またある知り合いで大学の市民講座を担当してる方からは、赤字なので授業料を少しだけ値上げした所、団塊世代の人達から猛烈なクレームが来た。この世代の代表として、一体どういう思考回路なのかと聞かれた。僕は団塊草食系だから解らないと答えたが。
 またイベント主催者からは、ライブ会場で最初から騒いだり、周りの雰囲気を構わず騒ぎ立てたり、クレーム・野次が多くて、辟易しているとも聞いた。
 また、喫茶店の主人からこの世代のマナーの悪さや注意すると、何が悪いと睨みつける人が多いとこぼしていた。

「みんなで渡れば怖くない」という習性が身に付いてしまった結果だとは思う。大人数で世代内の激しい競争が常に付いて廻った結果の習性で、生きて行く上で身に付いた知恵だと思って許していただきたい。

また、人数が多いので、当然出来の悪いのも中にはおります。
一つだけいうと、当店のお客様にはマナーの悪い方は一人もおりません。
はい。


団塊
2011/07/04

最近立て続けに団塊の世代の悪評を聞いたので、その世代の話。

私が生まれたのは昭和22年だから団塊の世代に入れられる。
だが、私は早生まれなので実際はその上の年代である。私の学年は27人で2クラスだったので、いつも先生にくっ付いていて、日曜日も先生の所に遊びに行き、写真を撮ってもらったり、散歩に連れて行ってもらったりした。少人数のクラスはみな仲良しで、いたわり合って小学校生活を送っていた。クラスの喧嘩などあまり見たことがなかった。

それが下のクラスだといきなり42人で4クラスになった。教室の数が足りないのでそういう人数になったそうだ。理科室とか家庭科室などが消えたので僕らは面白くないとぼやいていた。
時々、そういう下のクラスを見に行くと、休み時間の騒音が猛烈に煩い。小競り合いがしょっちゅうある。弱肉強食の子供社会の出現のように見えた。
我々世代のように時々先生が残って勉強の解らない所を教えてくれたりすることもないらしく、先生と生徒がはっきり分断され、先生方から休みの日など時間外に先生と生徒が一緒にいることを禁止する動議が出されたといわれ、そのうちに我々も先生と遊べなくなった。
禁止しなくてもよいと思うのだが、禁止しないと面倒見の悪い先生は具合が悪いのだと、その時の先生がそっと教えてくれた。子供もこうやって大人の社会の仕組みを覚えていくのだな。
多人数を相手にしていては先生の身体が持たない。今になって思うと、数の多い生徒に手を焼いた、下の学年を受け持った先生たちの知恵であったように思う。

そういう環境にいた下の学年の子供たちは生活力が旺盛というか、皆生きる知恵があるというか、たくましかった。
6年生の時、下の学年と野球をしたが、僕たちのクラスは負けた。
のんびり型の僕たちが、数多い生徒の中で賢く生きることを学んでいる子供達とはもう人間のレベルが違っていた。ちょっと複雑なプレイでアウトを取ると、すぐに、習ってないから今のはやり直しして下さい。などと平気で言い出す。仕方ないから譲っているうちに何となくずるずる負けてしまった。
こども心にこれはエライ世代の人間だと思った。

当時、そういうクラスを受け持った先生方もまたクールな感じの先生が多かったと記憶しているのだが、偶々だったのかもしれないが、またそういう時代に移っていたのかも知れない。
「二十四の瞳」の時代が終わった時でもあったのだろうか。きっと。

それは中学に行っても同様であったが、更に凄い事になっていて、私が卒業する年にプレハブ教室をつくるために校庭がつぶされた。昼休みにソフトボールが出来ないと皆ガッカリした。
高校や大学に行っても同じことであった。生きる力がというか、世の中や先輩の扱いなどが上手で、すっかり舐め切っているのが伝わってくるのだが、先輩の立て方が上手いのでどうしようもない。

数だけでなく、人生でも勝てない世代の出現だった。
会社でも1・2年下の世代は、責任を取らなくても良い仕組みつくりが上手い上に、自分たちの権威を保つ事も上手かった、それで出世もする。
勝てないままだった。
子供のころから揉まれている子は強い。
憎まれっ子、世にはばかる、とは、この事と思った。

だが、今はみんな苦労している生きている事に変わりはない。

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