HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。
  
| テレビが来た(続) | - 2011/07/19
- そういえば、私が中学から高校の頃によく見たテレビ。
といっても毎日ほとんどテレビばかり見ていたから、どの番組をどのくらい見たか示せと言われると困る。それで、観ていたのだが憧れの気持ちがあったかどうかで判断すると断トツにこれと言える番組があった。 「サンセット77」「サーフサイド・シックス」それに続く「ハワイアン・アイ」となる。
サンセット77は、ロサンゼルスの 77 Sunset Strip が住所なのでそういうタイトルで、男二人の探偵が豪華な雰囲気を醸し出しながら事件を解決する話。主題歌もヒットし、どこに行っても美人が付いて廻って、こんな幸せな探偵なら僕もやってみたいと思うのであった。西部劇と違い、まさに現代アメリカの豪華さとお洒落さを見せつけられたドラマであった。
サーフサイド・シックス ロスのサンセット77に対抗して、マイアミビーチのハウスボートが事務所とこれまた豪華に見せずにいても、やっぱり豪華な雰囲気。主演は美男で有名な俳優トロイ・ドナヒューで、美男美女のカップルばかり。美男美女5人の仲間が、いつも行き付けのクラブで、たむろしていると事件が持ち込まれ、それを1時間で解決する。 金持ちのハンサムのボンボンで正義で強いと来ているからこりゃかなわん、と言えるセッティングで、これまたお洒落でゴージャスなドラマであった。
それに続いて現れたのが、我々日本人にちょっと身近なハワイを舞台にした「ハワイアン・アイ」。 その前にエルビス・プレスリの映画ブルーハワイが日本でも公開され、ハワイのブランド価値が上がったのである。といっても歌謡曲「憧れのハワイ航路」は昭和20年代の戦後の事で移民も対象という時代なので混同しないように。 よく歴史を確認するとハワイがアメリカの州に昇格したのは59年だから、アメリカでもこのドラマの製作はグッドタイミングだったわけで、いかにも国策映画のアメリカらしいな。 舞台はヒルトン・ハワイアン・ビレッジのプールサイドに事務所があるというからこれまた相当なボンボンだ。こちらも例により、アイドルのコニー・スティーブンスが歌っているクラブにたむろして、お互いカラかって、カラカウアベニューなどと冗談を言い合っていると、って下らない駄洒落は止めて。 ま、そこに事件の知らせが来たりして主人公達の活躍で無事解決するという話。しかし毎日クラブにぞろぞろ行けるのかよと、もう冗談も顔だけにしろという楽しさ。 日本では麻生総理がホテルで一杯やったからと、庶民の気持ちが解らぬヤツと、テレビで毎日叩かれ続けたことを考えると、こちらはもう非国民だわな。でも鳩山君は100万以上もする会員制クラブで軽くやるそうだから、麻生君や、このドラマの主人公達より上の世界だから、本当に庶民の気持ちは分かりっこないけどどこのテレビも騒がないのはヘンだな。 脱線するのは、てんぷくトリオ並だ。
こうしている内に、日本ではカントリー・ウエスタンやハワイアンが流行ったりするわけだ。アメリカ万歳だ! ただジャズはちょっとアナーキーだけどね。
結局よく考えると、どれにも共通しているのは「お洒落」「豪華」「男は強く」「女は可愛い」という事に尽きる。そして人間、いや俳優達の美男美女がいかに多いかという事が当時のガキである我々にまで刷り込まれてしまい、アメリカに憧れ、私など丁寧にジャズにまで憧れ今に至る。しかし、その正義のアメリカの、正義に裏に見えた汚さに失望が広がったのも大きかった。
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| テレビが来た | - 2011/07/18
- テレビ画面に毎日カウントダウンの「7日」等と表示される。24日なったらテレビは使い物にならず、私はこれでNHKの視聴料を支払わなくとも良い時が遂に来たのかと思うと嬉しい。
ま、ちょいと地上デジタル対応にすれば良いだけの話である。
思えば、私の人生でこれほど友達としていや親友として長い間世話になった人達はいない。って、テレビの事だけど。 ちょっと思いを遡ってみようと思う。
昭和34・5年の事だから、私が中学1・2年の頃である。 「ウチではまだテレビが買えない」と悲しそうにこぼす母親だったが、ついにテレビがやって来た。ヤアー・ヤアー。ヤアーだ。 それは、我家ではまだ一台も買えていないにも関わらず、裕福な叔父さんの家では早々とテレビを買い替えるという信じられない話になった。お下がりとして、本家にもないと恥ずかしいからと叔父さんが気を利かせてくれ、長男である父親がもらう事になった、今思っても誠に情けない話である。パチンパチンと観音開きの扉が着いたやや古いテレビだった。それでもテレビが来た喜びは大きかった。スイッチを付け、画面が現れる時を待つ時間の長さよ。
その時の番組を思い起こす。 すでに記憶から年代が前後してしまっているので、ネットで当時の番組を検索したが、記憶と一番好きだった番組が一致するので羅列する事に。一応テレビが来てからの年代である。 本当にどうでも良い話であるが。
昭和34年から「ローハイド」「拳銃無宿」。ローレンローレンの歌で始まるローハイドはクリント・イーストウッドが出て、フランキー・レインの歌だからね。拳銃無宿は何と主演がスティーブ・マックイーンで銃身を詰めたランダル銃を操ったクールな西部劇であった。テレビといえ豪華キャストだわ。
昭和35年からは「ララミー牧場」「ライフルマン」。ララミー・ララミーと始まる西部劇は高視聴率でアメリカ本場より人気が高かったそうで、私はスポンサーのバヤリースオレンジの「猿のCM」が好きだった。へそ曲がりだから。そうそう、スターダストの作曲者のホーギー・カ−マイケルが出演していた事は知ってる?。ザ・ライフルマンの英語式発音で始まるライフルマンはチャック・コナーズという元NBAだかNBCだか、いや双方の出身とかで、父子家庭にもメゲず、正義の長身で、ライフを連射するとこれまた長身のライフルをクルリを回転させ、手が短い日本人の子供たちを驚愕させたのである。学校で実際にあれは出来るのかと論争になったのである。こんなことで口喧嘩させて罪だな。
西部劇ブームはまだ続くものの、翌36年になると番組は憎き米英から脱却を計り日本も頑張るのである。なんと「夢であいましょう」という素晴らしいバラエティー番組を出す。ちょっと遅い時間帯に夢で逢いましょうというムードある歌から「こんばんは中島弘子です」と見たことも無い上品な女性が現れ、最後は渥美清のお笑いでお開きとなる番組は西部劇嫌いなオバサンさんにもウケ、あっという間に人気急上昇。坂本九の「上を向いて歩こう」はこの番組出身だとか。焦った日テレは負けじと「シャボン玉ホリデー」をぶつけると、クレージーキャッツはじめナベプロ総出演でナベプロ全盛時代を迎え、エンディングはザ・ピーナツのスターダストが素敵なハーモニー。 最早、戦後では無いと思わせるに十分な優雅なテレビ時代到来であった。
その後の37年、負けじと米英の巻き返しがある。いやアメリカは執念深い。 「ベン・ケーシー」「コンバット」と来た。ベンケーシーは医者の話であるが毎回ドキドキさせ、アメリカの医者物は一時も目を離せない程作り方が上手く「ER」の今に続く。主演のケ−シー高峰?どこで間違えかたな。グラチェ! 次のコンバットに移ろう。 ゴキブリの殺虫剤コンバットは主婦に人気だが、当時のテレビの戦争物コンバットは主婦たちには不人気だった。だが「スターリング、ヴィック・モロー!」と綺麗な英語の発音、って当り前田のクラッカーか、で始まるオープニングから、手に汗を握って画面を見入った。 番組は時々日系ハワイ人の部隊が活躍する話の時があり、ドイツ戦線で頑張る黄色い人達にはちょっと切なかった記憶がある。アメリカには負けたくなかったな。話を戻して、その時の主演ヴィック・モローは80年代映画の撮影中ヘリコプター事故により、ちょうど両脇に抱えていたベトナム人の子供二人と共にローターに体をまっ二つに切断され亡くなったのである。 そんな暗いニュースの後は、ちょっと明るいお話に。 当時の人気の、いや地方人気か「てなもんや三度笠」。 大阪が東京に負けじとど根性を見せた番組で、今尚燦然と駄洒落の世界に君臨するあの「当り前田のクラッカー」の提供の番組なのである。胸がわくわくしない? 君臨してない? こりゃまた失礼しました。
その頃かNHKは「ルート66」を放映。ナットキングコールの声が日本中に流れたのである。私の興味も徐々に音楽へと移行して行く事になる、だって青春だから。音楽の話はまた後で、ってもう済んだか。 次の年昭和39年になるとアメリカは次の手を打ってくる。「逃亡者」。これほど夢中になったドラマは無い。「リチャードキンブル職業医師....」で始まるオープニングは今でも言える程だからいかにも勉強に身が入っていない高校2年生だったか判る。威張ってどうする。だがこの年にはあの「東京オリンピック」なのである。この放送にはどのドラマも敵わない。この日の為に日本中でカラー・テレビに買替え、地上波騒動なんてものじゃかんね、この日を待った10月10日。前日の雨も嘘のよう、空は真っ青に晴れ渡り、学校も半ドン。先生達が子供より早く帰宅したって話がある位だから。国立競技場に行けない人は皆開会式をカラーテレビで見たのである。当り前か。そして興奮の2週間。他国開催では味わう事の出来ない興奮であった。 もう一度、私が生きている間に、もう一度子供たちに見せて上げたい。
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| PAT THOMAS | - 2011/07/17
- PAT THPMAS "JAZZ PATTERNS" STRAND SL1015(Mono)
入荷
ちょっと面白いボーカル・レコード。 一言でいうと、高く見えないレコードという事である。 色合いも薄く安いカーテンの前で写真でも撮ったのか?と言いたくなる。顔も半分弱しか写っていない。 しかし、けなすのが私の仕事ではない、良い所を見つけ出しセールスに結びつけるのが私のビジネスである。そう思い直し良く見ると、真ん中に色落ちしたような水滴の跡が、これは裏をひっくり返すと、ちゃんとタイトルの両側に分かれて、タイトルを飾る働きに変わるのだ。 タイトルも裏では「jazz PAT terns」となりPATと掛けている所が可愛い。
ぐちゃぐちゃ言わずに聴けって? マイナーレーベルらしく、ラベルがAB面逆に貼ってしまってあるので、注意して聴いて行く。 あらあら中々どうして、味のあるジャズ・ボーカルで、更に嬉しい事にバックの演奏が良いぞ。意表をつく好アルバムである。 メンバーを見ると.....、ライナーを読んでも何も書いてない、仕方ないので時々見ているこの方のブログから引用させていただく。 「ジャズとレコードとオーディオと」というブログを書いている方である。 写すのは楽だ。 この方は本当に多くのボーカルレコードを集めて聴いておられ、また自身のブログにその感想などを残していて、私などよく利用させていただいている。それもじっくり長い年数をかけた記録なのだから恐れ入る。 本当に有難いことである。
当時の黒人家庭そのもののシカゴ出身の8人兄弟の環境に生まれ、姉も地元では名が知れたたシンガーであった。テレビに応募したのがプロへの始まりで、62年にデサフィナードの英語版を最初にてヒットさせたシンガーとしても有名になった。 アルバムとしてはこれがファーストアルバムとなる。 バックのメンバーの顔ぶれも、想像外の凄腕メンバーが名を連ねていて、 TOMMY FLANAGAN(p), BOOKER LITTLEi(tp), CURTIS FULLER(tb),TEDDY CHARLES(vib), KENNY BURRELL(g), REGGIE WORKMAN(b),CHARLIE PERSIP(ds)等錚々たるメンバーをあてがっているのであるから、プロデューサーの力の入れ方が分かろうというもの。 こういう情報を集めるのが大変なのだ。感謝。
テディ・チャールズとレジー・ワークマンの二人とハミングでだけで押し通した「STAR EYES」は見事。ケニー・バレルとのデュオの「MY ONE AND ONLY LOVE」はこれまた味わい深い所を聴かせてくれる素晴らしさ。 「I DIDN'T KNOW WHAT TIME IT WAS」はレジー・ワークマンに上手く先導させて盛り上げて行くあたりは練に練った良い演奏である。
ジャケがどうのこうの言おうが、最終的にはレコードは聴かねば解らぬ。
「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」という、ことわざがある。 私はレコード屋の親父としてそれにもう一つ加える。 「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、レコードは聴いてみよ」 こんな感じで。
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| 領収書の受領書 | - 2011/07/15
- いつも海外買付けの航空券の手配でお世話になっている旅行会社。
以前、私がいた会社の末裔である。
その会社には旧友がいるので、気心も知れている事でもあり文句を言っても軽く受け止めてくれるので有難い、それで毎回頼みにしている。 その会社は集金に来ると妙な事がある。いつも私が不思議だなと思っている事があって、その会社は現金を受け取ると、代わりに領収書をくれる。当たりまえか。 所がそこから不思議な行動に出る。 領収書をもらった事に対する受取を書けと。 それで彼がそういうから、店のスタンプを押して判子を押して。 領収書の領収書をお返しする。
なんだか、気分が良くないのだ。 「お金を払って、領収書を頂く、それで終わりで良くないか?」それだけでいけないのか? いつも言ってやる「そんな会社に客が着くと思っているのか?」と。
社員も、また客も信用していない会社って、いったいどんな会社? ただの旅行会社だけど。 もっと良好な会社になれ!上手い!
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| お盆 | - 2011/07/14
- 新宿の街の今朝はお坊様が歩いている。
街の花屋にはホウズキも売っている。 そうだった、東京は今お盆なのだ。
そういえば、横浜にいた頃は田舎のお寺から7月のお盆が近づくといついつの何時ころ伺いますという手紙が来る。 わざわざ来ていただく事は、ありがたい事である。 ゆえに、そうするとお盆の飾りの準備をして東京と同じ7月にお盆をすることになる。
ところが、8月の13日になると、やっぱり習慣でお盆をやる。 結局、2回もお盆をやっていた。
迎え火で呼ばれたあの世の人は、この世に行ったり来たりで忙しくてかなわない、と思うのだが、こちらもそうしないと悪いように思える。
割り切れば簡単なのだが、根が田舎者だから、やっぱり8月の真ん中が良い。子供の頃から身体に沁みついた習慣は止められない。 7月ではよその家に来たようで、心が燃えない。
もう一度、日本中どちらかに統一してくれ!
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| スペースシャトルのタイル | - 2011/07/13
- 思い出した事があったので、島田先生の話の続きである。
一度で思い出さない所が私の良い所である。?
先生は宇宙船スペースシャトルの断熱タイルの開発をして、頑張って作っていた。 お金にならない話である。日本人なのですぐお金の話になっていけない。 金の話は置いといて。モトヘ。
小さいながら日本でも、アメリカと同様に宇宙開発計画があった。 よってタイルは重要な開発要素であった。例のコロンビア号の事故だって、断熱タイルの剥離も一つの原因とされていなかったか?
先生はそれで、苦心惨憺タイルを作った。 米国製は一枚200万円なのでそうだ、それがスペースシャトルのガワに貼って行くと、1機に付きなんと36,000枚必要なのだそうだ。 豊かな国は違う、膨大な予算だ。 日本の各社は宇宙開発の仕事を受注したいばかりに気が焦って、アメリカから技術をもらって来てつじつま合わせをする方法を取ろうとした。製造設備も買ったところがあるらしい。 中国の技術は借り物などといって日本では喜んでいるが、余りやっている事は変わらない。 話を戻して、地道に研究した先生のタイルは20万円で優秀。企業としては面白くないかもしれないが、国民として一気に希望が膨らむ。
比重がアメリカ製に比べ約半分。先生は自身が作ったタイルを持参して、アメリカの宇宙開発の専門部署に呼ばれ、行って先方様に見せた。 その自信作のタイルは、比重・耐熱性などいかにアメリカの現行品より優れているかが検証されて先生はホッとした。では、これを使って下さい、という話になった。所が「優秀さはよく分かった、我々の物より軽く熱にも強い、しかしこういう物は自国で開発して、自国の物を使う事に意味がある。残念ながらそれはあなたの国で使ってくれ」といわれたそうだ。 はい買います、でもこれは我が国で開発したなどと偽って特許を取るどこぞの国とは違う。 国の最先端の技術開発を担うという事はそういう事なのかと、アメリカ人の心意気に感心したそうだ。 これまた、技術や技術者を大切にしないで他国に簡単に技術を売り渡してしまうこの辺りの政府の指導者に聞かせたい話である。 実際調べると、日本の企業でもこの技術に関して沢山特許を取得していて、大体繊維が素材になっているが、先生のは無機物から作る、陶芸家だから出来る話である。特許も取らずに。
その後紆余曲折があり、残念ながらアメリカのスペーシャトル計画は終焉を向えた。アメリカといえど金が無いしね。 日本でも二番ではいけないかのかという議員も出現して、宇宙開発予算も縮小されれ、スペースシャトル計画は幻となった。 もちろん今後も、宇宙計画は続行され、ロケットの先端部分がパラシュートのぶら下がって帰還するそうだ。私はスペースシャトルが帰還して、空港に降り立つ姿に惚れ惚れして、ニュースを見ても拍手するのだが、パラシュートでは拍手はしない。早くも優雅な姿は消えた。
大きな宇宙に向けての、小さな一歩は、小さいままで行きそうだ。 ともあれ、結果的に先生の仕事も封印される事になった。
今の政府は子供手当は作るが、こういう予算が削られる。それでは日本将来が心配である。実に残念である。
私が言っても仕方ない事は良く分かっている。
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| 青ついでに | - 2011/07/12
- 今朝のテレビ。地井さんの散歩の番組で、下町の雨に咲いたアジサイの青が綺麗だと盛んに言っていた。
確かに、はらはらと雨粒が付いた青はきれいだ。
「青」という色は非常に広い範囲で「青い色」として日本人に好まれてきた。 空の青、海の青、植物の青から紺、藍、等々に及び、また人の好みも多岐に渡る。 日本人は緑まで青に入れ、その範囲は広い。
画家フェルメールの絵の、見事に浮き出た青色は当時金にも匹敵すると言われた高価な石ラピスラズリを原料とすると聞き、とんでもない金が掛かった絵もあるものだと感心。
かつて、パーレビ国王の時代にイランに行ったときには、モスクの中の青い色の目を突き刺すばかりの青の凄さに、宗教の力を見たようで驚愕した。
当店はジャズのレコード屋であるから、ブルーノートのジャケットの青の色には一層興味深い。Tina Brooks「True Blue」はじめ、ジャケットの青い色の種類の事は一度日記にも書いた。肌の黒さをブルーであるとし、音楽のブルースとも掛けて、ジャズはブルーという当時の音楽家たちの心意気も素敵である。
また、「藍」の深い青に惹かれる日本人の好みも興味深い。 私の叔父はいつも、子供の頃家で母親たちが染物をしている時の「藍」の色が忘れられないと話していて、晩年、自費出版した句集に「紺のにおい」という題を付けたほど、愛着があったようだ。
また当店のお客様で、50年代に父親の仕事で滞在していた頃のアメリカ東部を映したネガが出て来たからと写真展を開いた方がいた。その個展を見に行った時ちょうど50年代の道路の写真が沢山あって、そこには当時のアメリカ車の青い色が再現されていて、ちょうど会場に来ていた人たちと盛り上がった。それは青い色が現代の様な青ではなく、やや黄色が混ざっている感じで、当時のアメリカ映画のコダックの青の色の発色もそうだったという事になり、昔は良かった話で落ち着いた。 5・60年代のアメリカの青は実に温かみのある、社会の余裕を感じさせる良い色合いであった。
兎に角まじめにいうと、日本人の青の基調は、若竹から芽が出て、すっと伸びて行くときの青色なのだそうだ。青々しいという若さというか、幼さを愛しむ、優しい心がある日本人の表れなのであろうか。
こうして思えば、趣味として我々のようにただ色や形を楽しむ者には「面白い」で済むが、作る人たちに側にとっては「命がけの青」なのである。
そうすると、なんだか余計に面白いね。うん。
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| 7月は | - 2011/07/11
- 梅雨が明けて、今日も暑い夏の日。
休まないといけない。
七月は 脳を休めて 水飲んで
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| 島田先生の事(続) | - 2011/07/10
- 島田先生の事を書いたので、青磁について。
私の父親は骨董狂いで家を破産に追い込んだ事は以前書いた。私は子供の頃から父親が毎晩一人で書画骨董など「ウーンいいなあ」と唸っているのを横に座って見ていた。だから陶器などはな好きであるが、青磁はあまり好きではない。生意気にいうとどうも青が安っぽい。
所が、汝窯の青は全く異なる青なのである。 一言でいうと異質な陶磁器である。
青磁とはネットで検索すると、大概こういうふうに書かれている。 「透明感のある青緑色の磁器で、紀元前14世紀頃の中国が起源とされ、 製造技術は韓国や日本にも伝播して東洋陶磁史の根幹をなした」と。 南宋の龍泉窯などが元になっている。
所がその以前、北宋の1100年前後のわずか20年程の間、北宋の徽宗皇帝(きそう)が命じた磁器があり、特別な皇帝のための窯、官窯がつくられた。それが「汝窯(じょよう)」である。そこで焼かれた青磁が最高とされ、日本人が喜ぶ価格の話をすると大小に関わらず億単位の価値で世界で71点が現存するのみで、破片にすら価値が付くのである。凄いでしょ。 徽宗皇帝の死後なぜか技術は絶える。 以後再現した人はなく、有名な乾隆皇帝の時ですら皇帝の命により再興に力が注がれたが、ついに完成に至らなかった。そして現代に至るのである。 実は噂によると、周恩来が命じたらしいのだが、やはり技術の再興はならなかったようだ。お隣の国韓国でも一応トライしてみたいと思っていたらしい。 無駄な努力とされている世界の所以である。
その汝窯の青磁の青の色とはどんな色かというと、「雨過天青雲破処」という、それはありがちな、後世の口の上手い評論家が気分で付けた。いやそうではなく、徽宗皇帝本人が私の使う食器はこういう色で作れと命じ、表現がそうであった。 「雨が上がった天の青さで雲が破るる所なり」、真夏の青空などというアッケラカンとした青ではなく、雨が去り、そして雲の間から、空の青い色と雲の白色とが混ざり合ったというか、「白が去りゆく瞬間」の色という、困難な表現の美意識を突き付けられた職人たちはどう答えたのか。 私なら馬鹿野郎、辞めてやる、となる所だ。
実際、窯の跡を見に行った先生は、失敗した破片が積まれた山は、本当の山と全く同様で巨大で、それが二つもあったと。本当の山だそうだ。筑豊のボタ山がもっと大きいのを想像する。 そこを掘ると破片が出てくる、現代十分通用する立派な色の破片であった。それが当時徽宗皇帝または職人には失敗作と写っていた事が分かったと。 冗談ともとれる美意識である。一度冗談に「先生、その徽宗ってそれほどの美意識の持ち主だったんですか」と聞くと「もちろん、この人は絵、字、にも並々ならぬ美意識があって、文字ほ形まで自分で作って国に広めたた人だよ」と。文字の形を作った。それに対しては「!?」こういうアクションしか取ることが出来ない。 後で色々調べた所、残った作品群が示している。これでは青磁は良くても、政治はだめで、国は荒れ人心は乱れたと。
尚いうと、皇帝のテーブルは漆である、漆と言えばチャイナという通り、漆もまた高級で、茶碗の高台にも薬を掛けないと、漆に瑕が付くのである。要求が高すぎて部下が付いて行けない典型例だったかもしれないが、成し遂げた人達がいたわけだ。 恐るべき美意識の権化の皇帝。
現存71点、その後の技術は途絶えた、という事を聞けば、当時の職人たちの苦労は伝わってくる。本当の美しさとは決して押しつけがましくない。 中国と言えば金銀ギラギラの皇帝のイメージがあるが、本物は違う! この汝窯の青磁がそう示している。
その青磁を再現した先生はやっぱりエライ! (写真は先生が到達した、いや当時を超えたと断言できる作品である。故宮博物館ですり替えて展示しても、気が付く人はいないと断言する。機会があれば見て欲しいのだが。)
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| 島田先生の事 | - 2011/07/09
- お客様の事は、プライバシー侵害と私の文章の下品さにより迷惑をかけて仕舞う事が目に見えているので、日記に書かないようにしているのだが、この方だけは書いておきたい。
「島田幸一」のこと。陶芸家であるが、青磁の世界では日本一の作家である。いや世界一エライのではなかろうか。 二年前に新宿紀伊国屋で個展が開かれたのだが、大英博物館と台湾の故宮博物館が興味を持って来たというから、世界的な驚異だったのであろう。
最初にお会いした時はスペースシャトルのタイルを作っておられて、私もその映像を確かNHKで見たので科学的な方だと知っていて、エライ先生なのだと思っていた。 所が本職は陶芸家でそれも専門が青磁だと聞き、失礼ではあるが、こりゃ駄目だと思った。 なぜなら陶芸家の中で、青磁だけは目指すなという言葉がある。青磁特に「汝窯(じょよう)」に魅せられてその道を目指したとて所詮敵わぬ、最後には破滅人生が待っているだけ、という意味である。冗談ぬき。 私も父親譲りの骨董好きなので、そういう浦知識はある。
それがよりによって先生は青磁専門なのだと。 それも汝窯青磁なのだと。先生それは無理でしょ、と思わず大笑いして突っ込みたくなる人生の遠大な計画に私の頭はクラクラした。
それが一昨年に完成品を並べた個展会場に足を踏み入れた時、かつて実際に見たことのない、それはそれは上品で、派手さの無いそれでいて極めて美しい青磁の数々を見るのは夢心地であった。興奮して顔から汗がびっしょり、心臓がドキドキしたのである。そんな展覧会はめったにお目に掛かる事はない。
先生は芸術家でありながら、科学的な分析から考察し製作を行う、実に珍しい「科学者的芸術家」或いは陶芸科学者である。話が非常に科学的で分子記号がバンバン出て来て、話を理解できるのは東工大の教授か大学院の生徒だけである。陶芸家よりも工業の先生という感が強いのである。 他の有名な陶芸家にも会いに行ったらしいがレベルが低すぎて話にならなかったと憤りを隠せぬ先生は、いつも孤独で制作に励んでいる。 そしてセンサーとコンピュータを駆使して焼く。
それでも聞くと、青磁のこんな作品が出来上がるのは確率1%強であると。 窯で、苦心の末100個焼いて1個?、200個焼くと2個....。 たった1個?2個? 先生、それはあまりに.....。
故宮博物館のキューレターがわざわざ遠くからアトリエに訪ねて来た理由もわかる。 「他の作家さんはもっとお金儲けしてますよ。先生、辛すぎません?」と尋ねてしまったのである。
先生は昭和50年頃、不運な事に、冗談ではなく不運としか言いようがないが台湾の故宮博物館で汝窯の青磁に出会った。 滞在中、毎日通ってひたすらそれを見続けた。 滞在最終日、館の責任者が出て来て声を掛けてくれ、キューレターから申し出があり説明を受け、そして遂に館長が出向いてくれた。なぜか食事をご馳走され励まされたそうだ。 それから脱サラして陶芸家になった経緯である。 向こう見ずな事、日本人の中でもトップに違いない。
その後の事は困難の連続である。 材料がもう無い。薪だって日本に無い。 それでも全ての困難を明るく笑って話してくれる苦労話は数あるが、多分奥様はその数倍言いたい事があるに違いない。
言いたい事を言って、すみません。
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