HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。

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バブルへGO! −2
2011/10/08

映画の「バブルへGO!」は続編がないが、私は続編を。
土地の話。

バブルがピークを迎える前に、横浜の我家のお隣さんは土地を売った。
150坪で2億ちょっと。チバリーヒルズと持て囃された頃同様に人気の千葉のユーカリが丘に開発前に500坪の土地を買ってあったので引っ越した。
余ったお金で家を建てた。
多分、最もハマった例であろうか。
人生こうありたい、流石の身のこなしである。

当時だが話は変わる。
旅行会社在籍中の88年にアメリカ観光局・商工会の招待があった。
89号線という合衆国を縦断する長い国道に沿って点在する大国立公園群、ザイオン、グランドキャニオン、ブライス、モニュメントバレー等を周遊するコースを作って翌年には大々的に日本人旅行者を招きたいと。
それはそれはと勇躍私も出かけて行った。
しかし物には限度、お茶には温度というものがあって、遠大なというか規模が大きすぎて計画も何もあった物じゃないのである。どのくらいと言われると困るので、ぜひ地図とネットの画像を見ながら一緒に考えて欲しい。

旅行中、現地の偉い方々との食事会の席で、何かの話から、彼らも日本の土地の価格に興味津々であった。
リーダーにお前が言えと言われたので仕方なく「ウチは横浜で700uで3億円位です」と言った所、上品そうな美人でブロンドの奥様が突然興奮して私を人差し指を鋭く向け「Kill you!」と大声で叫んだ。
隣にいた、これまたブロンド美人の奥様に言葉使いをたしなめられ、「あまりな突飛な話で興奮してしまった、家の息子と同じ様な会話になってしまって、ごめんなさい。でも信じられない」と、みな大笑いになった。
日本との家の価格の比較になり、じゃウチの家はこんなに広いのに日本の何分の1なのか?と悲嘆にくれる話から、馬鹿も休み休み言えというような雰囲気で会場騒然で上品さは消え、ザックバランな会となった。

その翌日、朝食前の7時頃、私が部屋を出るのを待っていたらしいその奥様と数人ががわざわざ訪ねて来てくれていて話があると。
聞くと、付近の不動産物件のパンフレットを沢山持っていて、この辺りは富裕層が多く、自家用小型飛行機でロサンゼルスなどに出勤するのだから環境は良いので、是非あなたに購入して欲しいと。
私は飛行機の操縦は出来ないので断ったが、アメリカ人のストレートな考え方と行動に感心して帰ってきた。

また話は戻って、って旅行だから話は飛ぶが、横浜の隣の土地を購入された一家もまた、バブリーな一家だった。
大人買い、と言っていいのか知らないが、その勢いで界隈のマンション3棟(戸では無い)も併せて購入。
家はまるでエンタシスの如く数段上がった階段に太い見事な柱が左右に構える、それは立派な構えだった。

それが2年ほどでバブルが弾けるや、銀行の借金取りが毎夜インターフォン越しに「明日中にいくら入金して頂ければ、次回まで安心できますよ」などと返済攻勢の日々。
数か月後、遂にエンタシス陥落。

現在、アクロポリスの跡も空しく家が4軒建っている。
今は昔の物語。

バブルへGO!
2011/10/07

2,3日前の日記。銀行利息の話でなぜか今頃思い出した。

計算の結果1,000千万円預けて利息が3,000円だった。
受け取る時は、税金が引かれるので更に目減りしているはずである。

そんなときには、私はバブルの頃を思い出す。
1990年少し前に記憶を辿る。バブルへGO!
映画のように、洗濯機の用意は不要だから。

当時の最も身近なバブル預金と言えば、庶民に人気の5年間据え置き型の「一時払い養老保険」。私の記憶では、余りに高金利過ぎて批判を浴び、少し下げた時に私が加入したのだが、それでも360万くらいを預けて、5年後に500万戻ってきた。
庶民と言えど、このくらいは普通に財テクをしていた。

それから日本興業銀行と言うのがあって、ワリコーという国債商品だが、利息の先払いが売りで確か2000万円持参してその場で70万円以上頂いて帰った記憶がある。
無記名と言うのが商品の売りだが、実際には税務署には筒抜けだったのがオカシイ。
また、○○生命の抵当証券と言うのがあって、1500万預けた所、一年後に利息が90万頂いた事もある。

当然株の上昇は絶望的に上昇を続け、額面5万円のNTT株を購入者殺到で大騒動、くじ引きで購入者を決定し100万を軽く超える値が付き、当選した親戚のおばさんは購入即売りに転じ、40万儲かった」と豪語していた。これぞバブルの頂点の話である。
株で儲けた話は当時、普通にあった。

サイン
2011/10/06

昨日、ご来店されたお客様が、購入しようと眺めていたジャケットの内側にサインがあった。
演奏者のサインではないという話になった時、「そういえばアメリカ人とドイツ人のサインの書き方が違いますよ」と言われた。

どういう事なのかと尋ねると。
アメリカ人のサインは筆の運びが横にスラスラと流れるのに対し、ドイツの人のサインは縦方向に激しく振れているのだそうだ。
なるほど鋭い考察だと思いながら考えて見ると、確かにヨーロッパ系の国の人で、地震計の様なサインの書き方の人が多くいて、面白いなと思っていた。
それが民俗性の特徴であるとは知らなかった。
サインを見て国が判るとは。
我々日本人の知らない世界もあるものだ。

現役の時に、アメリカのビジネスの世界で活躍されていた事が伺える、うん蓄に感心してしまった。

レコード屋稼業もなかなか勉強になる。

携帯電話
2011/10/05

電車の中でも、コーヒー屋でも若者の手には携帯電話。
いや、電話と呼んで良いのだろうかとはばかれる程に進化した通信機器。

今度、また新型のiphonが出るらしい。
もう、その話で持ち切り。
sonyの社員まで夢中。
オイ、オイと思うのだが....。

携帯だけが人生か?

利息
2011/10/03

銀行に行き、待っている間にぼんやりと掲示板を見ていたら、金利が表示されていた。
300万以上預けて1年定期で金利が0.03%。但し書きが付いていてスーパー定期なのだと。

スーパーは凄いぞ、と思い良く考えてみた。
計算は苦手なので段階的に徐々に考える。
もし3%だったら 90,000円。
次に0.3%だったら9,000円
0.03%としたら900円
ん!たった900円?

ならば、1,000万円を一年間預けても、3,000円という事か?
なんだかな。

STEVE LACY
2011/10/02

STEVE LACY "SOLO AT MANDARA" ALM AL5 JAPAN

私が毎日レコード屋通いをしたり、ジャズ喫茶のコレクションを見たりしている内に、作品数の多さにモリモリとファイトが湧き自分でレイシーのレコードをコレクションをしようと思い立った。
結局、世界中に散らばって制作されるレコードをせっせと集めた結果、なんとレコードだけで150枚を超えていたのである。
その時、これだけ多数の枚数のレコード作品を出す必要が果たして本当にあったのだろうかと考え込んでしまったのである。
その後も今度はCDとして出し続けられた。

そこで行き着いた結論は「彼の作品は日記であり、日記が作品である」。
彼は毎日のように作品を制作する、購入する側もまた、毎日購入して日記を読むかのように聴いて頂きたい。そうする事により彼の音楽芸術は理解出来ると。

しばらくの間、私は毎日のように出来るだけレイシーのレコードを聴いた。
何年も。
彼は一枚で語りつくす事はない。少しづつ思いを語っている。
それが良いし、また面白い。
レイシーの音楽を聴く事はジグソーパズルを埋めて行く仕組みの中にいて、全部の作品で一つの巨大なキャンバスを見る、と言うような感覚を感じてしまう。

ところでこの作品、やっかいな事にALMからの発売で、当然数は少ない。

発売してまだ間もない内である。
私は、このレコードを買い逃していたので、探しあぐね困った挙句直接会社に電話をした。すると「そのレコードならあそことここのジャズ喫茶にあります」。
訪ねて行ってみると「もうありません」。
また電話すると「いや、代金を受け取っていないのでまだあるはずです」。
という会社と委託先のジャズ喫茶との行き違いに遭遇するだけで、入手不可能。
結局、知り合いが2枚持っているからと一枚を譲っていただいた。エライ高額であった。仕方ない事である。

この作品の時期、75年は非常に充実していた時期でもあり、日本でも知名度が上がり、本人にとっても日本人に取っても非常に良い時期であったため、日本制作盤が多く、イマジネーション溢れる出来の良いこの作品を筆頭に「TORMENTS」「DISTANT VOICE」など今となっては幻し級がずらりと並ぶ。
知らぬは地元の日本人ばかりで、ヨーロッパなどでは大騒ぎの作品群なのである。
当時からフリージャズも聴かない日本の評論家がせっせとこれらの中古盤を購入し、海外とのトレードに役に立ったありがたいレコードでもあった。

兎に角、65・6年のイタリアで活躍していた頃に次ぐ第2の黄金時代である。

せっかく日本でのこういう立派な業績を、是非聴いて頂きたい。
フリージャズの音楽性を再認識するはずである。
ちょっと高いけど....。

音楽
2011/10/01

最近の若者がレコードを買わないという話を、数人としていた。

一人がお金が勿体ない世代、だという。
もう一人が、CDの世代だと。
もう一人も、CDすら買わなくてダウンロードで済むのだと。

最後に聞いた一人は音楽関係者だがこう言いきった。
もはや音楽も要らない世代なのだと。音楽とは鑑賞などでは無く、自分が演るものであり、またカラオケの事なのだそうだ。

生きてい行く上で、良い音楽も不要などと言うのは江戸時代の百姓の社会で、最早この世の終わりかと思った。
希望がないのう。



ART ENSEMBLE OF CHICAGO
2011/09/30

ART ENSEMBLE OF CHICAGO "GO HOME" GALLOWAY (FRANCE)

このレコードは個人的にAEOCの作品の中でも、1・2を争う私のお気に入りである。
だが、簡単にこれをここに挙げて宣伝するつもりもない。
それは、このレコードが非常にレアであり、面倒なことに再発盤もあり、オリジナルか否かの判断がつかないほど酷似して実にやっかいなのである。
再発盤も購入し、興味を持ってチェックした結果、少しの違いが判る程度で、今となっては、一枚だけを見せられると、私も正しい答えが出せるか自信がない。
個人的な感想を言うと、オリジナルと表示されて売られていたりするレコードで綺麗なものはほとんどが再発盤であると断言できるほど、オリジナルの綺麗な物が見つかりにくい。
マニア以外には興味の無い話であるが、私はマニアだから昔から新譜レコードを買う時からして、既に注意深かったので、常にラベルの色、形態、盤の重さについてチェックしていたので、新譜の時から買い替えを常としていた。

本は第一刷と書かれているが、レコードには書かれていないので、それはそれは面倒であった。
後年、マニアの間でオリジナルと決まった物を購入している方がずっと楽だ、と思う。

さてこの作品、白地に淡い茶色で「ART ENSEMBLE OF CHICAGO」「GO HOME」と書かれていて、数枚の小さな写真が散りばめられているシンプルなデザインである。裏ジャケも全く同様な絵柄で、芸がないと言えばそう言える。ダブルジャケットなので、内側をみると殺風景な社会派というか、シカゴの都市の写真であろうか、左端に僅かに曲名が書かれているだけである。更におかしなことにレーベルのGALLOWAYとあり、豚の顔がシンボル・マークとされていて、いい加減さに見る者の心を不安にさせる。
しかし心配は無用、レコード聴く物。一旦レコードに針を下すと、素晴らしい演奏が始まるので安心されたい。というより今となっては立派な廃盤として風格が漂う勢い。

彼らも当時の黒人フリージャズ・ミュージシャン同様、パリに行きそれで新しいジャズの到来としてフランス人に大いに受け、レコードを多数発売する。それで箔が付きその後の輝かしい音楽人生に至る。
したがって69年と70年は「苦悩の人々」「ラジオのように」「LES STANCES A SOPHIE」等代表作が集中しているのも頷ける。最初の黄金期をパリで過ごしたある意味ラッキーな音楽家たちであった。その70年の一枚で、当時は僅かに日本に入荷されたのみである。

曲は組曲の様な構成になっている。ブルージーでアーシーかつ優雅といった矛盾を孕むアメリカの音楽の当時の全てがここに表わされる。
気持ちの良い、揺り籠の中で聴くような印象の曲調がやがて、ヨーロッパ・フリージャズの様相を呈し、緊張と不安感に溢れるサウンドが流れ尽くすと、やがて最初のテーマに戻り、あやされながらエンディングを迎える。
詞的で、演劇を見るかのような彼らの見事な才能を示した力作である。

アレンジ、即興と研ぎ澄まされた才能がこれでもかと、ほと走る様を聴いている内に羨ましさ、いや妬みさえ感じてしまうのである。
こんなグループはちょっといない。

今回入荷はオリジナル盤だが、やはり少々ノイズは入る。
綺麗だと表示されていたので購入したのだが、まあ仕方ない。



JOHN COLTRANE
2011/09/29

JOHN COLTRANE "COSMIC MUSIC" COLTRANE RECORDS CRS5000 (USA)

レコード・コレクターなら、ジャズ・ファンなら、ましてコルトレーン・ファンなら、是非レコード棚に収めておいて欲しい一枚である。
こういう物こそコレクションと呼ぶに相応しい。

生前コルトレーンは、自分のレーベルを持ち作品を出したかったようだ。
死の直前、アリスと共に決心に至ったのであろうか、制作に取り掛かる。

彼が書いたドローイングをジャケットに使用された。
また裏ジャケには来日時、彼の希望で訪れた長崎で手を合わせた時の写真が掲載された。彼らの思い入れが詰まってるのが良く分かる。
ジャケットの体裁はダブル・ジャケットにされた。
内側には多分に宗教的なデザインでブッダありイエスありイスラムありの平和と宗教を混ぜた世界は、一つにならないと平和にならぬ、という彼の当時の心情が表れているのであろうか。

最初、レコード番号を4950番としてリリースされたものの、本人がジャケットの作りが美意識に合わ無かったか、気に食わず再度作り直しを命じたと言われる。
そして番号をわざわざ新規の5000番とし、ジャケットにコーティングを施してハードなカバーにして発売に至った。しかし、様々な事情から遅れに遅れこのレコードがリリースされたのは、彼の死後1968年になっていた。

だが、凝りに凝った分だけジャケット作品の出来は良く、前作と比べると問題なく素敵で、当然、5000番の方が珍しく価格も高額である。
本人が気に入っている方がマニアとて欲しいのは常識である。

このレコードには問題が起きる。当時契約先からクレームが付き、自身でのリリースは契約違反だと指摘され、やっぱりインパルスから出る事になった。マニアとしてはその辺の事情が切なさがあり、思い入れがある。

という当時のジャズ界の噂話を総合してみた。
いずれにせよ、今も色褪せない素敵な作品である。

JAZZ COMMITTEE FOR LATIN AMERICAN AFFAIRS (FM)
2011/09/28

このレコードについて語ってもウケないなあ、と思いながら止められない。
止められない性格だから。
ジャズはアメリカのオリジナリティーとあの国民は威張るが実は、結構、こうして他国の音楽も取込んで発展してきたと言いたいだけ。

WILLIS CONOVER "JAZZ COMMITTEE FOR LATIN AMERICAN AFFAIRS" FM FM303

所がさて、どう説明したらよいか、入門者のための作品ではないし、正直私も悩む。確かにジャズの歴史の中で重要なアルバムとされている。今日はどのくらい重要かについてだけ書いてみようと思う。

このアルバムのリーダーは一応、WILLIS CONOVERとなっているが彼はプロデューサーである。プロデューサーと言え、ジャズの世界ではあまり聞かないそれもそのはず彼は、ボイスオブ・アメリカという国営だか軍関係の放送に携わっていて、時々外国を廻ったりしていたようだ。ちょっとスパイとか洗脳とか嫌な仕事を想像してしまうが、そういう感じでもないようだ。多分私は好きにならないタイプの人間かなと想像してしまう。ここは関係ないな。

この作品は彼が引率して1961年にアメリカを誇示するために敢行されたブラジル演奏旅行の実況盤。演奏は7月16日。
メンバーはハービー・マン、ズート・シムス、カーティス・フラー、アル・コーン、ケニー・ドーハム、ロニー・ボール、ベン・タッカー、デイブ・ベイリー、アブダル・マリク、等をアメリカを代表する主要ジャズメンである。
演奏は流石に、ジャズの楽しさばかりを強調しているわけでなく、しっかりした好演奏で、ズートのソロなども味わい深い。FMというマイナー・レーベルで出たのも不思議だ。

さてこれは、1961年という歳が大いに関係していて、演奏に行ったはずの彼らは現地でブラジルのバブリーな社会と新しい音楽活動「ボサ・ノバ」に影響を受けるのである。
全員が興味を持って吸収したとされるボサノバ。その後の活動はメンバーを見ながら考えてみれば誰がどの位ボサノバやジャズサンバを演ったか、もう私の出る幕は無い。
すくなくとも、アメリカの豪華メンバーの面々はが、ボサノバを吸収した重要な出来事であった、インキュベーターの役目を果たした演奏旅行だったのではないかと思う。
作品としては、そういうきっかけはない事を確認しておく。

ボサノバの画期的な作品は59年のJOAO GILBERTOの"Chega de Saudade"になろうか。わずか1・2年で新しい音楽の芽は成長し、61年にはチャーリー・バードとゲッツの"JAZZ SAMBA"がいち早く作品を世に出された。
62年にはカーネギー・ホールで遂にボサノバ・コンサートが開かれ、ジョアン、カルロス・リラ、セルジオ・メンデスなど演奏した。
ブームはやって来て遂に、63年あの"GETZ/GILBERTO"がVERVEからリリースされ大ブームとなるのである。そして実際にブラジルに行って覚えてきたこの時のメンバーが果たした役割が大きいと言いたいのである。
ジャズの中に大いにボサノバやサンバが取り込まれた、幾多の名曲が生まれた。

この説明もあとは私の出番はない。

当時の音楽はアメリカで流行れば、後は世界が追随するだけの事で、もはや努力など無用である。いい時代だった。

ところで、この作品後年、ハービーマンをリーダーに仕立てた、作品が日本ビクターからも出ていたが、あまり音質は良くはなかった。 (HERBIR MANN "BIG BAND" FONTANA SFON7056)

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