HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。

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蒲公英
2013/04/09

散歩していたら、小学校の裏庭にタンポポが群れて咲いていたので、思わず立ち止まる。
新宿だって良い所もある。
暖かくなって、良い風景だ。
タンポポを見ていたらヘンなものを思い出してしまった。

「蒲公英も 咲けば我が痔も 完治かな」


気を取り直して。
タンポポの側に小さな子供でもいれば、もっと気分よく眺める元が出来るだろうと思うが、都会の学校ではそれを取って遊ぶ子供たちの姿も見えない。

タンポポの花もやがて枯れ、そのまま人知れず種になって飛んで行ってしまう。

「蒲公英も 痛いの痛いの 飛んで行け」

歌舞伎町で
2013/04/08

午前11時、歌舞伎町の裏で、10人以上の若者のグループが大声で何やら大騒ぎ。
見た所男女約半々、相手はお巡りさん2名。

昼近いと言うのに、若者は酔っぱらっているようで反撃も猛烈。
女の反発は強くて、順番に二人づつ繰り出しては、キンキンとがなり立てながらお巡りさんの胸を小突く。
それでも辛抱強いのか何だか知らないが、お巡りさんは「解散してもう帰ろうよ」と優しく訴え続けている。
男の方は向かい合ってガン付けあったまま。
時々携帯を取り出しては、嫌がらせのようにお巡りさんの写真を撮っている。
しかし、日本の警察は弱い。
アメリカだったら全員、警察に殴られているはず。
ヨーロッパだって侮辱されて「ほらもう帰ろうよ」などと諭している事はしないと思う。

交通取り締まりだけには厳しい日本のお巡りさん。
不良たちはやりたい放題。
しかし、新宿は嫌な所だ、こんな光景がしょっちゅう。

暇なので友人の話しでも(2)
2013/04/07

もう一人のクルマ仲間に埼玉県の獣医がいる。
彼はちょっととぼけた味があって、仲間が「ウチの猫がちょっと太ってきたので、どうしたら良いのでしょう?」。
具体的な答えを期待していたのだが、先生曰く「食べる量を減らしたら良いでしょうね」
「.....」。
続けて先生は「でもね、太った猫って可愛いですよね」
それで終わり。
「先生、それで商売になっているの?」と大爆笑になった。
正直なのである。

彼もまたエライ人で、って別にエライ地位があるわけではない。
中学生の時に、家が養豚をやっていた。
その父の姿を見ていて、父が苦労しないように獣医になろうと決心した。
ある情報から、近くの農業高校からたった一人だけ某獣医大学に特待生で、推薦で入れるという話を聞いた。
ようは首席で卒業するということである。
それで猛勉強をはじめた。

高校に入学してみたら、そんな事を狙ったのは自分だけだと思ったのは大間違いで、彼と全く同様な事を考えていた生徒が他に二人もいて、お互いに驚いた。
最後まで切磋琢磨が続いたが、結局首席で卒業し、念願の獣医大学に入った。
こうして獣医への第一歩を踏み出したのである。
彼の話によると入学後はちょっと気が緩んでしまったというが、なかなかの努力家であった事は言葉の端々から伝わって来る。

修業のあと、自宅を改造して開業している。
埼玉県もベットタウンになってしまったので、住宅が増え結局は犬猫の先生になった。
評判は良いらしい。

彼もまた何がエライかというと、子供の頃から目標を持って努力した事である。子供の頃に目標を持つことの困難さは、私も子供だった事があるから、よく分かる。
話を聞いていると、本人は笑いながらさらっと言うのだが、改めて想像しているうちに感動してしまう。
私には出来ない。

暇なので友人の話しでも
2013/04/06

私が今、元気と言わなくとも何とか仕事を続けて居られるのは、鍼灸・マッサージも含めた医療関係のお世話になっている事に加えて、車関係の友人の薬剤師のお蔭でもある。
薬剤師といっても漢方の薬剤師である。

彼は薬剤師になって、埼玉県の某所に薬局を開いた。普通の薬屋である。店は順調に繁盛した。
ちょうど駅の近くに先祖から受け継いだ田んぼがあったので、整地して駐車場もある薬局を作った。
洗剤やら家庭用品なども並べ店舗が大きくなった。

そんな時、会合で会った学友に言われた。
「お前はいつまで雑貨屋をやっているんだ。もっと薬屋として社会に貢献できることがあるはずだったのではないか」と。
胸に思う所はあった。このままのスーパー薬屋は自分の本位では無かったと、さっさと洗剤や大手の化粧品などを店内から追放した。
薬学を目指した頃の原点に返り、医学では解決できない問題や手助けが出来るはずだと漢方薬の勉強を始めた。
資料が少なく中国語も勉強した。
苦労の甲斐があって、いわゆる漢方と名ばかりの精力剤を売っているだけの店でない、本物の薬屋になった。

行ってみると、確かに大型薬屋スーパーだった事が伺える広い店内を仕切って、だだっ広い店内に漢方の相談室などを作ってある。
半分は彼の健康維持のためのトレーニングルームになってしまったが、それも悪くはない。

漢方薬の処方は日本において医師法があり、残念ながら薬剤師が患者の体に触れることを許してはいない。
従って中医のように患者の脈を診る、「脈診」が出来ない。大変な欠点なのであるが規則として仕方ない。
これはとても大きな障壁なのだが、したがって薬剤師は「問診」という患者の訴えによって薬の処方を決定する事になる。
そんな時に、病気以外の話が延々と続いても、処方のためのある一言を漏らさないとして耳を傾ける、我慢強い彼の姿が私に想像できる。
しかし、たとえ脈診が出来たとしても、最後の決定は直感である。ここが腕の見せ所でなのある。

処方で訪れ話をしていると時々、顔は笑っているが、彼のくぼんだ眼の奥がくわっと開いて、私の事を観察していると、恐ろしい気もするが、感じ取ってくれたかと思うと有り難い。
その直感を鍛えるために彼は弓道もやり、心を鍛錬している。

一緒に飲みに行くと、40年も前の初恋の人の話などをする純心な人である。
何が他人よりエライかというと、努力を惜しまない所がエライのである。

ところで、漢方に掛かるという事の第一歩は、自分が自分の身体の悪い所をどのように悪いのか知る事である。
それを、いかに的確に伝えるかが寛容である。
私は、薬局や鍼灸院で漏れ聞こえる他人の話から、自分の身体の事を説明できない人がいかに多いか、情けないほどである。
真剣味が足りないのか、それとも話を聞いてもらって満足したいのか、さっぱりわからない時がある。
病院の医師も含めて、先生という職業は大変であろうと察するにご苦労が身に沁みる。

PAUL TOGAWA
2013/04/05

PAUL TOGAWA “PAUL TOGAWA QUARTET” MODE #104

このレコードは日系二世アメリカ人のドラマーの数少ないリーダー作のひとつである。
MODEレーベルの得意な肖像画ジャケットの一つとして、ここでも男前に描かれた肖像画である。
音楽はアルトサックスのワンホーン・カルテットで、聴かせどころの多い好アルバムである。
このアルト吹きのGABE BALTAZARという人はハワイ島出身日系二世で、楽器の音色が素晴らしく、以前にはこの人のレコードが無いか、無いかと探していた人もいたのである。
結局はリーダー作がほとんどないという事が分かって熱も冷めた。

ところで、このレコードを取り上げたのは他でもない。
この肖像画が若い頃の自分にそっくりだというお客様が居たので、面白くなってしまったのだ。
これで見て想像すると、キリリと引き締まった顔立ちで、日本人らしさを秘めた良い顔、良い人相である。
野心に溢れた若さとはこんな顔であろうか。
昔の兵隊さんを連想させ、今の日本の男が失った、毅然とした所が感じられる。
自分でも似てると言うからには、周囲の人の意見はどうか尋ねると、家族にも、おーっという声が上がったほどだと言う。
なかなかの自信である。

このお客様とは開店以来の付き合いで、オーディオの事でも電話で良く話をしている。
だが、13年以上の付き合いながら、一度もお会いした事が無い。
無いが、こうしてこれが私です、と自己紹介されたようで、なんだか初めましてと言いたいくらい嬉しい。

ところで、MODEという会社は不思議なレーベルである。発売されたレコードは29枚それも1957年の6月から9月で終わっている。
たった4か月で29枚という急ピッチな仕事も疑問である。ちょっと見てみよう。
最初の100番 Herbie Harper Sextetが6月の録音、ここから、Stan Levey、人気盤Richie Kamucat、このPaul Togawa 、
Frank Rosolino等を含めて、Conte Candoli(109番)まで6月となっていて10枚。
次のA Jazz Band Ball Band (110番)から、Pepper Adams、トップクラスの歌物Lucy Ann Polk、Harry Babasin (119番)まで7月となっていて10枚。
次のVictor Feldman (120番)から、Don Fagerquist、名盤のWarne Marsh、と来て128番は企画のみで発売は無く欠番で、129番のThe Ex-Hermanitesまで9枚が1957年の9月。
これで29枚全てである。
その後にボーカルでCDなど、一枚再発されているようだが、本当にここのレーベルだったのか私は知らない。
たった4か月で29枚だけ出して終わったレーベルなのである。録音では無くリリースした期間が4か月だったかもしれないが、なんとも不思議なレーベルである。
おまけに20枚とちょっとある油絵で描いたと思われる肖像画の作者、EVA DIANAという人の情報もまったくない。
便利な世の中のネットにも、まったく引っかからない。
思うに短期間で20数枚の絵を仕上げるのは無理なので、数人が手分けしたのではなかろうかという気もする。
事務所の名前にしたか、EVAとDIANAという二人の仕事だったのかもしれない。
また、この会社のレコードを整理していると行ってもオリジナル盤に限った話であるが、時々ベツレヘムの盤と混同してしまう事がある。それはジャケットから漂う雰囲気がそっくりなことと、音楽も西海岸で共通点がある。
だれか解明してほしいものである。
この29枚で本が書けるかも知れない。

吉田ヨウヘイ
2013/04/04

当店従業員の吉田ヨウヘイ。
ジョーヘンダーソンのペイジ・ワンの向こうを張ったこのCD。
発売したのだが、意外に評判が良い。
と書くと手前味噌になってしまって申し訳ないが、何だか悪くない気がする。

TSUTAYA・レンタルからも500枚オーダーが入った。
まさかと、社内で驚いた。
そうこうしている内に、昨日のネットの朝日の記事に掲載され、褒めて頂いて、またびっくり。
思った以上に才能があったようだ。
人生を賭けた気合が入っている分、作品は良かったのだろう。

という事で、重ね重ね、何卒よろしくお願い申し上げます。

朝日の記事
http://dot.asahi.com/musicstreet/column/shinpu/2013040300004.html

東京アンダーワールド
2013/04/03

友人が来て、面白かったから読めと言うので買ってみた。
「東京アンダーワールド」ロバート・ホワイティング 古本で100円。

作者は日本のプロ野球の事も書いていて、社会の裏の話はお手の物。
戦後のどさくさと、跋扈するやくざの世界から暴力団に取って変わる時期やら、力道山の裏事情。
六本木のピザ屋の衰退と、そこに出入りする政治家、ヤミ社会、急成長する企業....。
日本人でも知らない東京の、社会の表裏一体のいかがわしさが書かれていて面白い。
結局、日本人とは、根底にある血はヤクザなのだと思わずにはいられない。

アメリカ人のビジネスマンのボヤキに対してピザ屋の親父の返事。
「日本員の商売敵はアメリカ人だけじゃない、日本人同士の争いはもっと熾烈なんだ」と言うのがウケた。

考えたら、一度読んだことがあった気がする。
最近は忘れっぽくなった。

血のつながるふるさと
2013/04/02

島崎藤村の本「夜明け前」は時々引っ張り出して読んでいる。
長いので、時間が掛かる。
おまけに昔の、あの界隈の事が出て来るので、景色に思いを馳せたり、私の父母や親戚や友人たちの事も考えてしまい、想いに沈んでしまい中々読み進むことがない。
それでも好しとしているのは、そういう郷愁に浸っている時が好きなだけだ。

あの藤村の言葉。
  血につながる ふるさと
  心につながる ふるさと
  言葉につながる ふるさと

これまで書き進んで、遂に思い出してしまったある出来事。
家に「島崎藤村」という本があった。文学者の紹介本である。
その本を買った父は、藤村の息子の楠雄氏に会いに行き、なにか書いてくれるように頼んだ。
相手は渋るも、なんとか説き伏せて、その本の見開きに書いてもらった。それが、あの言葉である。
それが父の宝物のひとつであった。
藤村本人ではないのが惜しいが、藤村そっくりな字で、なかなかの味わいであった。

高校生の頃、その本を欲しくなって、父に頼み込みその本を貰った。
「どうせ、オレが先に死ぬから、お前にやるか」という事になった。
私の自慢の逸品が出来た。今だったら人気テレビ番組「なんでも鑑定団」に出したいくらいだ。
それを遊びに来た友人が見つけた。
ちょっと貸せよ。
ちょっと貸してと、帰って来たことがないのはこの世の道理。
それでも、時々は催促しながら2年待った。

しびれを切らした卒業間際、彼に本を返してくれと言う事にした。
彼は落ち着いて「今更良いじゃないか、冷たい事をいうな、お前の面倒を見たのだから」。
「....」
面倒という言い方に、一言も返すことが出来ない。
なぜなら父が事業に失敗し、父も母も働きに出て家は金回りが良くは無い。学校に弁当を持たずに行く日もあったり、小銭を持っていなかったりする日もあった。
そんな時に気が利く彼がパンを一つ買って来てくれた事があった。弁当を半分分けてもらった事もある。
しかし貧乏かというと、叔父のお蔭で父は働く場所もあり、私が高校を退学するほど貧しくもならなかった。
むしろ普通に貧しい高校生だったと思っている。周囲もみな貧乏だったから。
ただこっちはせっせと小銭を貯めて映画を見に行きたいので、昼食も食べなくても一向に構わないのだが、彼が気を利かせてくれる。
パンを貰ったことは事実、空腹を満たした事も事実。とても有り難かったし、言われれば返す言葉がない。
友人もまた良いヤツだった。
結局、本は却って来なかった。
ただその時漠然と思った「これから大人になると、面倒な話がいっぱいあるのだろうな」と。
小さな出来事だが、当時は友の別れと、藤村の書が載った本との駆け引きが同時に起きて、余計に淋しかった。

井伏鱒二
2013/04/01

どうもここの所、話が続く。

それで今日は、広島県の方と電話で話していたら、福山市の子供達の中には、井伏鱒二が福山出身だという事を知らない子が沢山いるという話になって、これでは将来が不安だと、話が盛り上がった。

そう言えば、私が高校に行っていた頃、という事は東京オリンピックがあった頃。
私たちの郷土の文豪、島崎藤村を「シマザキ・フジムラ」と読んだ同級生がいたから不思議でもない。
先生は怒る事も忘れ茫然としていたが、クラスの中には、どこが拙いのかきょとんとしている子もいる。
当時の私でさえ思わず、コイツ等 本当にこれで良いのかと思った次第。
なぜならば、当時はまだ藤村の息子さんも生きていて、学校の遠足でも藤村記念堂に行った事があるはずだったから。

そう考えると今は、新宿区の子供達も夏目漱石が新宿区出身だと知らないだろうな、と漠然と思った。

ま、知らなくても生活に困る事もない。
知ったからと、どうなるものでもない。

花に嵐のたとえもあるさ
2013/03/31

今年は転勤で行ってしまう人が多い。
2・3日前には大阪に戻った方が、レコードを売って下さった。
それは嬉しいが、親しかった人が遠くに行ってしまった事が淋しい。

友の別れには、李白の有名な漢詩。
黄鶴樓の「煙花三月下揚州」の一節が脳裏をかすめた。
去り行く友を見送る最高の風景だ。
これは書くべきだと思った。
思ったのだが、他人の国境にちょっかいを出してくる中国など好きでは無い。
今後、私は絶対に漢詩の一節など書くものかと決めているから、書かない事にした。
それも寂しいから、やっぱり何か書かないと納まらない。
ならばと「花に嵐の例えもあるさ、さよならだけが人生さ」と書いてしまった。

今になって考えると、日本的だが、これもまた漢詩の一節である。
原型は「花発多風雨」「人生足別離」となっていた物を、井伏鱒二がこういうふうに書いたからで、こうなった。

日本語訳が独り歩きしているようなので、これで良しとする。
好きだなこの「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生さ...」

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