| レコードの中の日本 (ECM) | - 2013/11/29
- 昨日の日記の続き。
ARVO PART “ARBOS” ECM 1325 GERMAN THE HILLIARD ENSEMBLE, GIDON KREMER,など
ガルバレクのレコードをなるほど聴きながら、仕入のレコードを整理していると、これまた出て来た。 静寂が地平に沈んでゆくような作品。 静寂感がどこまでも続き地平の彼方に溶け込んで行きそう。 静寂はまた、高く上り教会の塔の先から立ち上り天に消えて行きそう。 それで、改めて聴かせていただいて、感動した。
このジャケットの中にライナーがあって、見ていると冒頭にいきなり、こんな一節がある。 The temple bell stops but the sound keeps coming out of the flowers BASHO あらま、今度は松尾芭蕉が引っ張り出された。 ところで、この芭蕉の英訳された俳句は、ネットを見るとあるある、いっぱい出て来る。ネットは便利じゃ。 英訳した俳句が出て来るのだね。 俳句とはこれだろうか? 「鐘消えて 花の香は撞(つ)く 夕(ゆうべ)哉」 何処かの寺で鐘を撞いていた音が消えたら、そばにある花の香りが漂ってきた、ああ、もう夕方かと。 日が落ちて行く夕方の景色の哀れさなのだが、目に見える情景に、更に情景に音を伴い、また更に臭いまでも伴うと言う、景色を二重三重に余計に哀れさを、表現して見せた・聴かせた、嗅がせた。 名人芸じゃ。 それのみならず、そこに更にもう一つ芸を入れて、鐘の衝くと、花の香りが衝くを、見えない韻を踏んだ所が、「言葉遊び」として完璧である。 良いねえ韻を踏むなんて、今風の若者もこれまではと思える見事さ、アメリカのガキにも教えてあげたい。 ダジャレ親父も完敗。 だけど、この英訳はなんだかちょっと原文と違わないかと思い、実家に帰って俳句の本を引っ張り出すのも面倒だし、 更にネットで調べると。 そうすると、この句の英訳は他にあって、こんな調子 As the bell tone fades、 Blossom scents take up the ringing、 Evening shade. こっちの訳の方が近いな。 最初のジャケットに使われた方にはイブニングが無かった、「夕べかな」は大事だから、無いと情景が浮かばない。 では、ひょっとして他の俳句かと思い考えて探すと、これまた出る出る。 「鐘撞かぬ 里は何をか 春の暮」 「入逢の鐘もきこえず春の暮」 「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」これは芭蕉じゃない、失礼しました。
そんな事ばかり考えても仕方ない、どれがどれだかもう解らなくなった。 こんな事ばかりして、今日は何も仕事をしていない。 ああ、仕事だ、仕事。
ところで、思ったけれど、彼等の静寂さは我々日本人の「侘寂」とは違う気がする。 底にわびさびがあって、無常という点にいき付く。 我々のこの世は無常であり、神も仏も無い。 だけど神や仏とは切れない。 それは神や仏の先に自然があるからだと思っているから。 そして自然の究極は無だと思っているから。 神や仏は死んだ後に、残ったものが勝手にやってくれと。
だが、欧米のこういう音楽を聴いていると、サウンドは極めてキリスト教の宗教的で、その神が無くては成り立たないような様子である。 音楽は神を称えているような気がしてならない。 音楽を聴いても言葉が解らないので何を言っているのか解らないが、この世は神の仏もないものだ、などとは絶対に言っていないのだ。と感じる。 だから無常観を出されると、ん?と思ってしまう所はある。 しかし音楽は素晴らしいかった。
また、どうでも良い話だった。 私ももっと信心を持たないと天国にいけないな。 本当に、仕事をしてないな、今日は
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