HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。
  
| 店の小鳥 | - 2015/07/08
- 写真の小鳥は、人がそばを通ると電磁波や音に反応して鳴く仕掛けになっている。
右側の黄色の小鳥は、当店の開店当時に前にいた店のお姉さんが、お客様が入って来たら鳴くので便利で良いからとそのまま、置いていったものである。 以来、店で客寄せとして頑張っていたのだが、働きすぎなのか電池交換しても鳴かなくなってしまった。 仕方なく先日、小物を売っている店で購入して来たのが青い方。 これが又働き者で、よく鳴く。 古い方は、お役御免で捨てようかと思ったが、それが申し訳ないので、そのままにしておいた。
それが、ここの所新入りの方が、疲れたのか不調なのか働かなくなった。 そのとたん、今まで全く鳴く事も無く捨てられる寸前だった、黄色の小鳥が、かすかな声で一生懸命に鳴いている。
オジサンもう、愛しくて、愛しくて。 アホくさい話だけど、不思議だね。
|
|
| 一人で忙しくて | - 2015/07/06
- 一人が買付にいっていて、忙しくて、日記の更新もままならない。
|
|
| 私の大学入試の時の話 | - 2015/07/03
- もう50年になろうとしている。
私が大学を受けようと思ったのは、家から逃げ出したかったからである。 卒業後材木屋の仕事しか念頭に無かったのが、急きょ神奈川県の淵野辺という所にある獣医大学を受ける事にした。 私の受験のために、東京にいた姉が、前泊のために大学付近の旅館を探して来てくれた。 その辺りには数少ないちょっと大きな旅館だった。
宿に着いて、住所、氏名など記入し、夕食になった。 広間には大勢の受験生が集まり、座が盛り上がって、そろそろ夕食も終わりに近づいた頃突然、宿の女将が大きな声で「池田晴彦さんはいますか?」と。 何で私だけといぶかりながら「はい」と返事をすると。 「あなたですか、ちょっと話がありますから、こちらに来て下さい」。
宿の居間に通されると、80歳ほどのおばあさんが小さく炬燵に座っていた。 女将が「こちらにいるおばあさん、私の母です」 仕方なく「こんばんは.....」 「実はね、母の出身があなたと同じ所だったんです。生徒さんの住所を見ていて驚いて、あなたを呼んだのです」。 お婆さんに、住所を読み上げ「間違ってないね」と確認、お婆さんも頷く。 なんという偶然。 お婆さんが言うには「私は川向うのミゾクチという家の出なんですよ」。 私がよく知っている家なので「僕の母の実家は屋号が下畑といって苗字が前野です、ミゾクチは近くて親戚です」と。 お婆さんは、「そうだそうだ、近所だ、よく知っている」と余計に喜こぶ。 女将が「これも何かの縁、神様の引き合わせ。親戚の子が、よくぞここに来てくれました」と喜んでいた。 女将はおなじ炬燵に座っていた娘を指さし、私の娘だが、去年高校を卒業して家を手伝っている、あなたが住むところが無いはずだから、ここに住んで大学に通うのも良いではないか、授業料を払う訳には行かないが、住んでもらうのは何も心配はいらない。その後、娘と結婚も考えてくれ、という話まで飛びだしてしまった。 娘を見れば可愛くて中々の美人、でも旅館という家のせいかやや大人じみているのが気になる。 しかし、私もそこまで言われてしまえば満更でもない。
というイキサツがあって、受験どころでもなくなった話の中で、田舎に戻って見ると、発表の前日、女将が知合いの教授にこっそり頼むと、補欠だから30万円ほど用意をしておけという話があると。悠長な時代の話である。 しかし、成績が不足した事は間違いない事実。 考えた私は、家が倒産したばかりなので30万など払えるはずも無く諦める事にした。 父親は頑張ると言ってくれたが、私には到底無理な話と思えた。 女将は残念がって何度も電話をくれたが、丁寧に断った。
それで母の叔母にその話をするために出かけて行った所、既に黙っていられない母がしゃべって歩いていたので、近所のお婆さんたちは、当時の事を覚えていて、ある事ない事出て来てしまい、ニュースの少ない田舎の事、大騒ぎ。
叔母の話、淵野辺のお婆さんは、ミゾクチの実家の娘だった。 男の子がいなかったので、婿を取って家にいて農業など手伝っていたが、行商の若い男と出来てしまった。 度々、男が訪ねて来たところを目撃されていた。 50年以上も前の話を覚えていた。 田舎はね、家の者が知らない事を近所がみんな知っていると。 やがて二人は駆け落ちをし、名古屋に逃げたという話であった。 最初は探しに行った事もあるらしいが、見つからない内にやがて家の人間からは抹殺された。 死んだものとされていたのだそうだ。
しかし、駆け落ちした若い二人は、東京に流れ、食べ物屋などしてお金を貯め、淵野辺にて旅館を持ったのである。 駆け落ちした女の心の切なさは、今の私達には想像も出来ないが、家を出て以来、一度も故郷には帰る事が無かっただけでなく、葉書一枚出さなかった。 故郷を捨てた覚悟が垣間見えた。 しかし、女将の話によると、最近は年のせいか時々田舎の話が出て来るようになったが、自分達にはどうしてよいか分からなかった、という事であった
私の受験騒動で、双方の家と無事が確認され、ミゾクチからは手紙と共に、家でこしらえた干し柿をひと箱送った。こんな田舎なので送る物としてはこれしか無かったと。 淵野辺からはお返しにと手紙とお菓子が届いた。
ちなみに、私の叔母からは「オマエさん、ウチとミゾクチは親戚じゃないからね。むやみに親戚にするな」と、しっかりと怒られた。
|
|
| BEN WEBSTER “WEBSTER’S DICTIONARY” | - 2015/07/02
- BEN WEBSTER “WEBSTER’S DICTIONARY” RONNIE SCOTT’S/PYE N-112 (UK)
1970年に録音され、72年に発売になったアルバムである。 やっかいな事にPHILIPSレコードからも出ている。 どっちが、どっちの話はマニアに譲って。
このアルバムは抜群のムードがあっていいなあ、とお茶を飲みながら、空気感いっぱいのテナーを聴いていて、しみじみとジャケットを眺めていたら、何と言う素敵なタイトル。 ウェブスター辞典だと。 ウェブスター辞典とは、アメリカで出されている有名な国語辞典である。 その辞典と比較して、どうだと言ったところに面白味がある。 ウェブスターの辞典はあらゆる言葉を網羅して、出ていないワードはない、しかし、俺たちにもウエブスターという男がいて、その男ウエブスターの辞典は人生を長く生きただけでなく、アメリカ、ヨーロッパと各地を転々として、ジャズを広めて来た、そのウブスターの心の辞書はこれだと、世界に示したのが、このアルバム。 いや、彼だからこそ、そう威張っても許されるのだ。 ロンドンのクラブのロニー・スコッツの叔父さんは粋なタイトルを付けたものだ。 これぞ最高のダジャレ。
参りました!
演奏? 良いに決まっているさ。
|
|
| 梅雨注意 | - 2015/07/01
- 梅雨真っ盛り。
レコードの保管に注意しましょう。
エアコンの除湿のスイッチを入れましょう。 特に1階、台所、玄関付近が置き場所になっている家は、必ずエアコンの除湿を入れましょう。
ひと夏でカビは生えます。 臭いもつきます。
今からでは遅いくらいですが、しないよりましです。 本も同様です。
|
|
| 万引き | - 2015/06/30
- 朝、コーヒー屋にいたら、ちょうど近所のスーパーのお兄さんが来て、「いやー、この間は大変だったんですよ」。
なんだと思ったら、万引きの話。 警察から連絡があり「どうも最近は万引きが多い、オタクの店も万引き犯が喜んで吹聴している事も耳にはさんだので、ついては立ち合わせてくれ」という事で、一斉取り締まり決行。
100円均一の客の多い日に狙いを定め、朝から客は並び、一斉に店内に雪崩込んだところを店員など見張っていると、こちらで商品をカバンに、あちらでポケットに、とあっという間に6人検挙。 一番ひどかった人は、近所の飲食店さんの主人で、1パック2000円の高額牛肉を、前掛けの内側に予め仕込んでおいた袋に5パックも詰め込んでいた。 素知らぬ顔で帰ろうとしたところをとっつ構えた。
ショックだったのは、全員、店員と親しく口をきいていた近くのオバサンやお婆ちゃんなど。 親しい人こそ取った量も多かった。 中にはおまわりさんに捕まったとたん、店の店員に大声で「○○ちゃん、助けてよ!」と叫んだと。 吉本喜劇も真っ青と思える話の成り行きにみな唖然。 店員も白け切って、そんな声に知らんふりで通したそうだ。 万引き犯が店員に助けてくれとは、思い出しても笑ってしまう。 だが仲の良い人こそ、万引きの犯人だった事がとてもショックだったと嘆いていた。
それを聞いていた、コーヒー屋の客が「そんな飲食店のご飯は気持ち悪くて食べたくないよね。あんときの牛肉が万引き商品だったなんて」と、考え込んでいた。
うん、今のジジババは拙いよ。
|
|
| デモ | - 2015/06/29
- 一度、書いたかもしれない。
だが、行進のリズムが気になって仕方がないので、よく聞くようにしていた。 それで考えた事。
ここ西新宿の辺りを、最近は頻繁にデモ隊が通る。 そのデモの参加者の雰囲気が、かつての左翼や労働者のデモと明らかに様子が異なる。 鐘や太鼓を引っ張り出して来て、賑やかである。 どうしても気になって仕方がない。
よくリズムを聴いていると気が付いた。 日本人のデモのゆったり感が全くない、また日本人特有の2拍子でもない。 ふと気が付いたのだ、これは川向うの国の人々のリズムなのだ。 スピードも速くて3拍子だと思う。 あちらの行進はみんなこんな感じである。 本で調べたら、まさに同じようなリズムの事が書かれていた。 近い国なのに、民謡のリズムも、日本とは全く異なると。
であれば、今回の安保法案に反対してデモをやっている人達って、いったいだれ? それに日本人が同調して、嬉々として平和・平和と参加と叫んでいるとしたら、滑稽極まりない話になる。
|
|
| 家の関連で... | - 2015/06/28
- せっかくなので、私の父親つながりの話。
時々、知合いが集まりで話題が無くなると、誰か知合いに有名人が居る人?などとやっていた時がある。 そうすると、意外にもかなりの人たちが、親戚、学友、近所など色々な話が出て来て驚いた事がある。 有名人は意外に身近にいるものだと。
それで、私の場合は「池田邦吉」という変人がいて、それが従弟である。 ノストラダムス大予言の世紀末がブームになった10年以上も前の話。ビートたけしにも可愛がってもらい、その手の番組に出させて頂き、一時は引っ張りだこだったのだ。
ちょっと古い話なので、記憶があいまいな方には「悪魔の大王が降りて来ると、ポンペイのベスビオ火山が大爆発するはずだと、イタリアまで市長に会いに行き説得するも、お前は頭が変だから帰れと」言われてしまった、情けない話で有名にされてしまったのである。 大概ここで、皆ああ、あの方ですか!となるのである。
大概の方は、有名人になりたがりのお銚子者かと思うらしい。 所があにはからんや、意外にも堅物なのである。 彼は、小さな内から学年で成績が一番で、ずっと級長だった。 それが小学生の生意気なガキが、我が家の親などにも会った瞬間「僕はね級長なんだよ」と可愛げのない事をいうので、大人はチヤホヤするけれど、従弟の私にすると劣等感を掻きむしられた惨めな気分であった。 ところが、邦吉の学力は恵まれた環境によるものでは、全くなかったのである。
父親は〆吉というのだが、なにしろ子供に教育は要らないという親で、夜は8時過ぎに電気を消す。 勉強等してはイカンと小さな内から早朝、新聞配達をさせられ、家の助けを強要されていた。 であるから、邦吉は親に隠れて、家事の合間などに勉強し、夜は勉強をしたくて電燈の周りに新聞紙を被せて学んだ。 しかし過熱し、そこからボヤを出し父親にこっぴどく怒られると言う事件も起こした。 正に蛍雪の話そのものである。
その父親の〆吉だが、実は戦前、刀鍛冶の修業から始め、いっぱしの所まで上り詰めていて、帝展(現在の日展)の日本刀の部門において入選もした事がある程の立派な人物だったのだ。 その記念の小刀を長男である私の父に送られ、今はそれを私が持っている。 それが敗戦、日本刀は一気に不用品と化し、名誉を失ったついでに仕事も失ったのである。 出来る事と言えば身に覚えの鍛冶屋の仕事だけ。 それで東京下町の鉄工所の職人となったのである。 要するに戦後の時代に上手く合わせられなかった一人でもある。
その中にあって更に悲しい事に、邦吉が小学校の内に母親は病気で亡くなってしまう。 そんな辛い中でも、たった一人で勉強を続け、遂に東工大に入学する。 東京大学も大丈夫だから行け、と担任に言われたのだが、万が一にも落ちた場合は、親が進学を認めない方針だったので、絶対の安全策だったとの事である。 彼は勉強を重ね、建築士になり、ツーバイフォー工法の現実性を説き、我が国にツ−バーフォー工法の住宅を広めた一人でもある。
それが30年、蓄えも出来、つっ走って後ろを振り返れば、仕事ばかりの人生、趣味の勉強でもしたいなあと思った。 勉強の人だから。 知合いに誘われてラテン語の教室に通ってみたのが、運のつき。 そこで出会ったのが「ノストラダムスの予言書」。 彼は優秀だけに、読んでしまった。さらに裏の裏まで。 苦労はしたけれど、純真な性格だけに、疑う事を知らなかった。 そのまま信じ、例のテレビ番組に誘われてしまうのである。 そのブームも終わった。 おわったのだが書き物が沢山あって、それなりに人気も続いているようである。 彼も何か感じる所があったのか、最近は「自分は神の使いだ」と考えているようである。 私の姉に言わせると、我が家の家系は「天才と気狂いしかいない」と言われる所以でもあるのだが、常人には理解不能な人でもあって、彼がどちらかは他人に任せる事にしている。
|
|
| 叔父のこと | - 2015/06/27
- せっかく、私の原点に触れてしまったのだから、ついでに叔父の事を思い出して見た。
書かないと、片落ちした気持ちになってしまう。だがこれは私の備忘録と言えるもので、他人が読んで楽しいものではないが、自分への記録として残す事にした。
叔父は大正2年に生まれた。私の父が明治45年だから、多分そうであろう。 私の記憶では4月1日の生まれだったという事。 なんとも4月馬鹿というオカシナ日に生まれたのも個性的な人の宿命であろう。 私の父が長男で「林一」と言う名前で、叔父は2番目に生まれたから「作二」と名付けられた。 2番目に作ったから作二だと。 何とも軽々しい期待感の薄い名前である。 もっとも、その後の子供達はもっといい加減な名前の付け方になる。 次が生まれた時は大正だったので「正男」。 また次に男の子が生まれてしまったので、もうカナワンと、これで子作りは〆ようという事になったので「〆吉」(しめきち)という、絶望的な名前であった。 しかし人間の子孫繁栄のため、神はそんな願いを聞き届ける事は許さず、また人の思いと行動は一致しないもので、昭和になってから、また子供が出来てしまった。 それが昭和になっていたのでそのまま「昭造」という昭和に造ったと誰にも分かる単純な理由だったのだ。 という名前の話で終わるつもりはない。
作二の生まれた頃もまた池田家は、父親は相変わらずの酒浸りの人生で、当然のことながら貧乏だった。 尋常小学校の時、近隣の商家に奉公に出された。 本人の話によると授業中にも関わらず、迎えに来られ、そのまま相手の家に連れて行かれたという話である。 奉公先は、木曽福島のお代官を勤めた家の娘が嫁いだ商家で、先方のたっての希望で奉公先が決まってしまったのだった。 商家には男の子が3人いたのだが、作二の頭の良さを聞いて是非にとなったものだったと本人は語っていた。 そこで、昼間は店で働き、夜は主人の勧めで当時の実業専門学校に行かせてもらって日々を送っていた。 その内に、戦争が始まると言う事になり、志願して軍隊に行った。 店の主人は、何故戦争などに行くかと烈火のごとく怒りのお前の将来の為を思って、学校にも行かせて育てていたのにと、とても残念がった。 しかしお国の為と思い、満州に行き、自動車部隊で修理などしていた。 しかし、残念ながら結核に感染。死んだと思われたのが生き返り、半死の状態で船に乗せられ広島の軍関係の病院に収容された。運良く少しだけ回復したところで、もういいだろうと東京の陸軍第一衛生病院に搬送されたが、結核はすっと長い間、身体からいなくなることはなかった。 陸軍第一衛生病院とは多分現在の新宿にある国立医療センターの事か?
そんな月日の立つ内に、商家の息子達も成人し一人は東京の商社に勤めていたので、再び兄弟の付き合いが始まった。 頻繁に会いに来てくれ、少し良くなったところで、田舎に帰るための背広も作ってくれ、ようやく田舎に帰った。 この家は家族ぐるみでなぜか、ずっと生涯に渉って協力をしてくれたそうだ。
兄林一の妻の実家が庄屋で余裕があったので、そこでも世話になり寝泊りをつづけた。 春先になり、竹の子が沢山取れると近隣に売って歩いたり、化粧品の時代が来ると考えて、化粧品を仕入れて男ながらに売って歩くなど、ちょっとしたアイディアを作り上げて行った。
その時代の叔父の話。 行商をしたり、色々な仕事をやってみた。他人にひどい事を言われたり、苛められたり、お金が乏しかったり、疲れ果ててしまったりすると、実家にいる母親やヌクヌクとしているだけの兄貴の事を思った。 自分の不運はイカンともしがたく、何としても成功しなければと思った。 そんな時によく山を見つめると、黒々とした針葉樹林、特にヒノキの山が広大に広がり、ここは木しかない、きっとこの木が自分を成功に導く鍵だと感じた。
そうして、国有林の森林組合が経営する木材会社に入ったのだが、優秀さと人気でみるみる頭角を現し、ついに社長に就任した。 その内に法律も変わり、会社は存続理由が無くなってしまい解散と言う事になった。そこで作二は、ならば自分でやりたいと、会社を買い取り、ついに材木屋の社長になったのだ。 作二の信念は、おなじ社長でもオーナー社長でなければ人生の意味はないと。
その後はトントン拍子に成長を続けた。 やがて県会議員等を勤め、当選と落選を繰り返した。落選中は、押して押して押しまくると口癖の実は頭を下げての挨拶運動、それが当選すると、今度は人々から威張っていると陰口を叩かれ、落選といい筋書き通りである。
いずれにせよ作二は商売だけでなく、天皇家・徳川家の直轄地だった尾州ヒノキの保護にも勤め、伊勢神宮の式年遷宮のヒノキを納める名誉も受けた。 それは子、孫へと引き継がれた。
作二叔父はお金を儲けたと同様に、お金をばらまいた人でもある。 バラ撒いたといっても、叔父は困った人が来ると、己の苦労と重なってしまい断る事が出来ず、人の苦労を助けたいとお金を貸してしまう。勿論、貸したお金が却って来たためしなどない。 また近隣の町村から、村おこし計画で、温泉のボーリングなどと言われると、直ぐに多額のお金をポンと払ってしまうのだ。 後で叔父に言われて、その温泉に行ったのだが、色々の協力者の名前の中に最初にお金を払った本人の名前が一切出ていなかった。 世の中はそんなものであると、解っていながら全く見返りの無い事をやっていたのだ。 また結婚詐欺に遭い多額のお金を取られた話も近隣では有名になった。
そんな叔父が僅かな暇を見つけて俳句を作っていた文学好きでもあった。 私から見ると、気が狂ってしまうほど必死に事業に精を出し、それでいて出て行く金には無頓着で、人間性は大らかで、ちょっと威張っていて、笑顔は可愛く、騙されても何にも言わないところなど、男として素晴らしく、私には理想的な人物像そのものである。
私の姉の話。 叔父が亡くなった時、ふと思いつき、叔父の頭を触らせてもらった。 丸くて大きくて形の良い頭だった。 思った通りの立派さに、頭の良い人でかつ天才だったと感心した、と。
棺桶の中の死人の頭を触りたいとなど馬鹿な事を言い出した姉の突飛な態度に、遺族は大変困惑したに違いない。 よくも許したものである。
|
|
| 通販リスト更新 | - 2015/06/25
- 通販リスト更新いたしました。
宜しくお願いいたします。
|
|
  
|