HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。
  
| お金の... | - 2015/06/23
- 私は、自分の人生を考える時にはいつも「私はお金には困らない」と言い聞かせている。
確かに、今までの人生で度々困難に遭遇したが、なぜか何となってきた。 誰かが救ってくれたり、金が巡ってきたりした。 それはなぜだと振り返って見ると、たった一つのあるポイントにたどり着く。 それは私が小学校5年生くらいの頃だった。
時々、父親の一つ下の叔父が遊びに来るだびに私の事を可愛がってくれた。 私が池田家における本家で、しかも男一人の長男だったのでそれもあったらしい。 当時、叔父は既に材木屋として成功を収めていて、まだ県会議員はやっていなかったが、なかなかの羽振りであった。 それがさらに成長を続け、伊勢神宮や皇居にヒノキを収めるようになるのだ。 ある日叔父が、自分が商売で成功したのは「人を見る目がある」からだという話になり、独自の人相だの耳の形だのと話になった。 私の顔をじっと見て「お前は金が貯まる、最悪でも金に苦労はせん顔だ」と言った。 ふーん、そんなもんか、と思った。 その後も度々そう言われ、その度に「お前は俺の下にいろ」とまるでラッキーボーイのように言われ続けた。 思えば、そう言われた事が、ピンチの時に心のどこかで頭をもたげてくる。
あの時の叔父の言葉は私の人生の魔法の呪文のようで、あるいは特効薬だったかもしれない。 それを言ってくれたのが、海千山千いや魑魅魍魎たる戦後のどさくさを乗り越えた材木商人たちから騙されたり裏切られたりして、人を見極めるための叔父なりの人生観から出た、独自の人相学だったと思うと、それは、不思議な真実味があったのだ。 子供なりにそれは分かっていて、とても嬉しかった。
過去の人生をつくづく眺めると、私は「不幸中の幸い」があって、ずっと生きて来れた気がする。 高校の時に商売下手の親父が骨董品などに手を出して倒産したのを救ってくれたのは、当の叔父だった。 今の金額にして2億円くらいであるが、それをポンと出してくれた。 大学に入った後の生活費と授業料は、我が家の工場で働いていたまだ20代だった柘植さんという人が、倒産を機に独立し、私の父親が失敗した同じ木工品の商売で結構儲けが出たからと、これまたポンとお金を払ってくれていた事を後から知った。 私よりちょっと歳上なだけの、まだ20代の若さだったのにと思うと申し訳なくて泣ける。
結婚して家も無く金も無い私がレコードなど買えたのも、嫁の実家が裕福だったので、庭の隅に家を作らせてくれ、食べる事に心配が無かったからである。 会社のリストラの後、買い貯めてあったレコードが役に立ち、レコード屋になれたのも、そのお蔭である。 また、レコード屋を始めてから、来てくれた人は良いお客様ばかりでいつも助けてもらってやってきた。
私は、そういう人々にどうやって感謝して来たかと言うと、誠に心許なく、申し訳ない想いに心が切ない。 私は天国に行けないかもしれない、と思う今日この頃である。
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| 昔の事 | - 2015/06/22
- 家の倒産。
高校2年の初夏の頃だったか、父が真面目くさった顔で話があると。 訊けば、今まで材木屋として工場をやっていたが、にっちもさっちも行かなくなった。ついては明日、俺の兄弟が家にきて一族の会議があるから、お前たちもいてくれと。 学校を休んで家にいると、父親の兄弟の内近隣でやっている材木屋関係者4人が集まった。 しかし内々に、既に叔父とは借金の肩代わりの話は済んでいたらしい。 兄弟の前で、父親がイキサツを報告し、その結果池田家の恥を作った事を詫びた。 喧々諤々兄弟の言いたい放題の話を、我々家族は首を垂れて聞いていた。 お金を払ってくれる事になった叔父はあまり文句を言わない、しかし叔父の材木屋で働いている一番下の叔父さんが、一番うるさくののしっていて最後に、家族全員の責任だ!と怒鳴って帰ったのが、不思議に思った記憶がある。
その夜、今後どうするかという話が家族であった。 東京の姉が、家族で出て来て、アパートでもみんなで住んで頑張ろうと言っているので、そうしようかという話もあった。 私も姉も、高校を止めて働くと言った。
工場は一時閉鎖、社員は解散。 その後一切の財産が、叔父の会社名義に変わった。 従業員がお別れに来てくれた。 私も責任を感じて、合わせる顔がなかった。 あっさりと引き上げた人もいるが、泣きながら帰って行った若い社員もいた。 やがて、叔父の会社の社員が出勤して来るようになった。 工場の大きな看板は変わったのが悲しかった。 私の仕事場になるはずの工場だったのに。 しかし、頭に同じ「池田」の文字が付いている所が、見る度に余計悲しかった。 その内に、父親は叔父さんの工場で働く事になり、お前も高校を出たら働けと言われていたが、それはなんとしても避けたかった。 私としては父親の兄弟の下に居る事が、屈辱的な事に思え耐えられなかったからである。 何しろ父の知合いには、池田家の皇太子と呼ばれていたのである。それは笑い話にしても、私が意気揚々と子供の頃から父に付いて材木を見たり工場で走り回っていた木材の教育が無駄なった。
母親は生まれて以来一度も故郷から出た事がないので東京に生きたくないと、事ある毎に言い出し、みんなで取りあえずここに居ようという事になった。 母はやがて、独立した若い人が興した木工の工場で、経験があるからと言う理由と、その彼の人助けの意味もあってそこで働くようになった。 私は、なに事もなく淡々と高校に通っていた。 ただ今までわずかだがあった小遣いは、その月からきれいに無くなった。 ちょっと違った事と言えば、倒産事件が友達の間に広がり、なんとなく孤立感が増した。 小さなバイトをよくやったが、小遣いと言うよりは、米のツケや酒の支払いとか、母親に生活費を貸したりした。 家の仕事を手伝っていた真ん中の姉が無職になり、それで学校にでも行って学びたいと言うと、親戚が東京の洋裁学校の園長に知合いがいると紹介され、住み込みで来てくれれば、学校も出してやるといわれ喜んで行ったところ、板の間に寝かせられて只の女中だったと、堪忍袋の緒が切れて帰って来た。 一番下の姉は、高校を出たら親戚の理髪店に住み込みで来て良いと言われていたのだが、倒産したとたん、そこの主人から頭の悪い子は要らないと断られ、悲しがって泣いていたが、しばらくして名古屋のスーパーに就職した。
高校卒業が近づきこのままでは叔父の会社に行かなくてはならない。何とか逃げようと考えれば、東京の大学に行くのが一番だが、私は材木の勉強ばかりしていて、学校の勉強をしていなかった。まして倒産劇のあと家の中は混乱して、父は酒に逃げ、母も生活の事で精いっぱい、私も無気力になっていて著しく学力は劣っていた。 夜は一応机に向かい教科書などを広げるのだが、関西のラジオ番組「電リク」に耳が行ってしまって勉強どころではなかった。 それでも、父も最後の子供位は学校に行かせたいと奮起、皇太子はなんとか東京に出て来る事になったのだ。 東京に出て来て、父の兄弟たちと距離を置く事が出来たのが、一番嬉しかった。 しかし、不思議な事にたいして可愛がってもらっていなかった2番目の叔父が、実家に帰ればウチの娘の「かに玉」は美味いからご飯を食べに来いとか誘ってくれ、東京に来るたびに電話くれて遊びに連れて行ってくれたりした。 でも女のいる所に行こうとシツコイのが玉にキズだったが。 ぶっきら棒のおじさんの変わりようが不思議であった。
お蔭で、今までの仲が良かった人の心変わりや、人の情けに触れたのである。 今更になって思うに、よくも故郷の家も残り、一家が離散する事もなくやって来たものだと思う。 きっと叔父など腹わたの煮えくり返る思いであったに違いない。 それをぐっと我慢して本家のため、子供たちの為だと言った事を、ずっと後になって聞いた。 後になって家も畑も返してくれたが、他の兄弟の手前そうせざるを得なかったと母に謝ったと聞いて、謝る理由など叔父には無く、別に聞かずとも、すでにみんな解っていた事であった。 叔父はどうでもよいヨタ話はするけれど、肝心な事は何も語らなかったテレ屋で男らしい人だった。 したがって、子供たちは余計に父親を恥ずかしいと感じ、また、何か辛い事がある度に、辛く当った人を恨む事よりも、そういう状況を作ってしまった父親を憎んだ。 2人の姉達は、特に母は、ひどく父を憎んでいた。 姉達はそういう母をまた憎むのであった。 それでも姉達は、父も母も最期まで看取ったのである。
母は一生父を憎んでいたが、それが、夏休みなどで時々実家に帰ると、母がちゃんと仲の悪い父と一緒に寝ていたので、私には何んだかなあという思いだった。
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| 出会い系、迷惑メール | - 2015/06/21
- 最近、迷惑メールが非常に多くて困っている。
キッカケは、女の人の名前でメールが来た。 私は、レコードのオーダーかと勘違いしてそれをクリックしてしまった。 それ以来、女の名義それも名前を次々と変えて付き合いませんかとメールが来る。 30件以上のメールで、こんなにモテるのかと勘違いしたい、ほどの数である。 淋しいとか、しばらく男と会ってないとか、暇とか言われると、オジサン思わずこの中には一人くらい本当の子がいてオッと思わない訳では無い。 が、出会い系のメールはそこが付け目、引っかかっている暇はない。
以前、携帯の方に出会い系メールが頻繁に来て仕舞って困った事があって、その退治方法を調べていたら、センターがあって、迷惑メールを集め撃退してくれるらしい。そこにせっせと送っていたら、ある日パタッと来なくなった。それで、パソコンでも利用したら良いかもしれないと思ってせっせとセンターに送ったのだが、一向に効果がない。
あまり効果の無さになぜだろうと思い、送られてくるメールをよく見たら、一つづつ送信元のアドレスが違う。 まあ、なんともご苦労な事である。 これではセンターに通報してもデータが蓄積出来ないのだから、証拠固めにもならないはずだ。 私もようなく理解はできた。
そうしたら従業員がノートンなどソフトを購入して来てパソコンに入れた。 ところが今度は、自社の端末が使えなくなって、元に戻した。 ノートンは無用の買い物であった。 私がいつも、セキュリティーソフト自体がもう一つの迷惑ソフトだと言っている通りである。
さて、新手の迷惑メールの面倒くささを理解したが、こういう新手のメールはどうやって撃退したらよいのだろう。 誰か教えて!
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| 結婚にまつわる話 | - 2015/06/20
- 知合いの両親の結婚の話で、本当にあった話。
父とか、父の父とか出て来て話が解りにくいと意見があったので、解りやすく名前入りで。
知合いの父親、和男(仮名)は北海道の港町の出身である。 成人し大学も出てやがて、北海道選出の議員の秘書になった。 そこで出入りしていた道庁に、「江梨子」という美しい女性が働いていて、恋に落ちた。 しばらく付き合い、やがて結婚することになった。 お互いの両親に紹介し、認められ、いよいよ結納という事になった。
和男と父親は江梨子の家を訪ね、互いの両親が顔を合わせたその瞬間。 彼等の父親たちは、互いの顔を見て、相手が誰だかはっきりと解った。 間違いなく知っている人物だったのだ。
和男の父親は商売人で一旗揚げると若い時に北海道に渡り、様々な仕事に手を出した。 様々な仕事に手を出したという事は、良い時もあれば悪い時もあるという事である。 良い時には、小学生の子供ながら当時オメガの腕時計を買ってもらった事もあるそうだ。 家も御殿のような立派な家だったそうだ。 悪い時には、離れのような、狭い一部屋の家に住んでいる事もあり、多くの事業に手を出したりちょっと灰色のビジネスにも手を出した事がある、激しい浮き沈みの人生だった。
一方、江梨子の父親は、警察署勤務で刑事から署長にまで勤めた立派な人物であった。 こうして書いていると、浮き沈みの激しい人の方が、紹介する文字数が何倍も多くなってしまう。 モトエ。
江梨子の父親が最初に声を上げた。 「あの時のお前じゃないか」。 刑事だった父親が驚いたという事は、まさか刑事と犯人という事になってしまうが...。 正に、その通りだったのだ。
これほどの人生の偶然という事があろうか。 だが、犯罪と言うには犯罪らしくなく、娘を嫁がせるには気にしなくても、そのまま良いではないかと思ったという事である。
和男の親が、終戦時、商売人として手掛けた事は「闇商売」。 米を仕入れたり酒等を仕入れたりしたので、それで、摘発され刑事に捕まっていたのだ。 当時、ヤミは沢山あったので、今後気を付けて下さいという事で終わったらしい。 それが互いに覚えていた上に、子供同士結婚するという何とも不思議な巡り合わせだったのだ。
元警察署長が婿に「娘を捕まえたら絶対逃がさないように」と言ったかどうか聞かなかったが、「娘をよろしく」と言う話で落ち着いたそうだ。
知合いはこういう話を、母が死んだ悲しい席で、初めて父親に聞かせられたということである。
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| バリレラのカートリッジ | - 2015/06/19
- バリレラのカートリッジ。
今月は、バリレラのカートリッジをずっと聴いて来た。 ヴォーカルには良い。 生々しい音で、人の声をうまく表現してくれる。 探して来て良かったなあ、と思いながら、毎日聴くのが楽しくて仕方がない。 こういう時は正解だった時である。 只、一つ言えば、こういう物はすべてが良いわけではなく、ちょっと行き過ぎだったりする時がある、しかしプラス・マイナスを考えれば正解だったという事である。 全部に良いものなど、この世に無い。
それで、製品の誕生がどういう経緯だったか、調べようと思って雑誌をペラペラ捲っていたが、大概はGEのバリレラの事が書かれていて、タンノイの話はない。個人的に資料も持っていなかった。 それで、書く事が無くなってしまった。
それで、雑誌に戻って。 雑誌の試聴欄を見ていて気がついたので、ケチを付けると。 いくら試聴と言えど、バリレラの試聴に61年からの発売のレコードやその後の日本盤での試聴ではなく、できれば50年前半の、アメリカ等で作られた10インチ盤等でやって欲しかった。 そうでなくても、最近は評論家の先生方の、そのあたりの音源の選択が、読者から、改善の余地ありと指摘されるところである。
試聴に使用するレコードの選択があまり無頓着だと興味が無くなる。 特にジャズの場合であるが。
ちょっとめげる。
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| 安全保障関連法案 | - 2015/06/18
- 今、国会とテレビにおいて、ホットな「安全保障関連法案」。
分かりにくいのでちょっとまとめてみた。 憲法解釈云々の学問的で非現実的な話には触れない。 学者の話など勝手にやってろ!どうでも良い。
テレビから伝わってくるのは、集団的自衛権と、他国軍への後方支援を明文化したい法案であって、反対したいと。 名称は「平和安全法制整備法案」と「国際平和支援法案」である。 前者は自衛隊の出動のこと、後者は集団的自衛権であり国際紛争を押えるために「他国軍への後方支援」のため自衛隊海外派遣を目的にしたものである。 野党およびテレビは「戦争法案」と呼んである、法律を作るとすぐに戦争になると反対している。 法律を作るとすぐ戦争になるんだ、面白い解釈をするものだ。 ここで良く見ると、後方支援となっていて、他国軍と行動を共にするわけではない。 な〜んだ、という気もしてくる。 戦地に行って、後方でちょろちょろ仕事をするだけだと。 戦争にもならない話である。
テレビの報道はどうも「戦争反対」「戦争が悪い」という論点の一つである。 戦争は悪という、戦後一貫して我々が学校でも社会においても教育されてきた戦争反対運動は、今大変大きな足枷となっている、 たしかに太平洋戦争および戦後のモノ不足などで苦労をしたのであるが、なにより学校で習った事は、日本の兵隊たちが悪かった、故に、兵隊さん憎しの感情で軍隊はイカンと。
しかし、日本が川向うの国にお金を払わなくなった途端、領土をよこせと言う話が出て来てしまった今、戦争反対といつまでも叫んでいる訳にも行かないのが現実である。
ヨーロッパはNATO北大西洋条約機構があり、集団的自衛権を行使しているが、かつては、それに対抗し東欧とソ連によるワルシャワ条約機構もあった。 そうやって世界中の国が、なんとか上手い仕組みを作って領土を守ろうとしているのに、日本だけが、私をアメリカが守って当たり前、だと言っていて良いか? 日本に取ってかつての東西対立があってこそのアメリカで利用価値はあった、しかし時は移り、国際社会においても経済優先となり、アメリカと中国は最近結構仲が良いのである。 こうなるとアメリカが無条件で日本を守る筋合いはない。 利用価値がある方に着くのが国際社会というものである。 クリミア半島、中東情勢を見れば、自国の都合で動いているではないか。 日本も自分でやったらどうかと言う、単純な話である。
ここでもし日本と韓国が竹島で一戦を交えるとしたら、どちらをアメリカは取るか?、考えてみた。 まず日本とは、第2次大戦で敵味方に分かれて戦って以来、一度も行動を共にしていない。 しかし、韓国軍とは朝鮮戦争で共に戦い、更にベトナム戦争で共に悪巧みを組んだ仲である。 どちらが気の知れた間柄かというと、これは、相手に軍配があがる。 それなのに、日本をアメリカが守るなど、本当に信じているのか。 日本には、戦争するなよと抑え込んでおけば、アメリカとしてはやり易いのである。 ポチと言われる所以である。
自分の国を守るという事の意味を問い糺す時が来た。 中国の南シナ海のおける展開のスピードは恐ろしいものがある。 実際、フィリピンなど米軍が撤退した後いきなり行動に出た。 ベトナムなど、同じ共産国の友人だと思いきや、いきなり領土奪略。 戦う気もない国がどういう目にあうか、学んだはずである。
次は東シナ海、その次は西太平洋とはっきりと明言した通りである。 日本人は境界線の解釈問題だと思っているが、あちらはたんなる領土拡大の一環でしかない。 もう、国家感が違う。
以前、中華料理屋のおじさんの「領土拡大のために一千万人が死んでも止むを得ない、それは国民みんな思っている」という話が思い出され、なぜか胸が騒ぐ。
戦わない者に応援する者がいないのは、この世の常識である。
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| オーディオ・ラック | - 2015/06/17
- オーダーしてあった、オーディオ・ラックが届いた。
古い棚の移動、搬入、アンプなど入れ替えで一日掛かった。
ラックの材料は「タモ」の無垢板にした。 塗装は手塗りでやってもらった。 思った通りの色が出ず、3回塗りで一月間も掛かった。 スピーカーの色と同じにしたかったが、色見本で注文したためか、スピ−カー・ボックスのこげ茶の色より、赤っぽくなってしまった。 見本だけでは難しい事が分かった。 でも、両方とも手塗りだし、まあ良いか。
音を確認すると、今までより大人し目になった。 そんなものかな。
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| ローンの借り換え | - 2015/06/16
- 知合いが法律の先生に聞きたいと言うので、取りあえず私が最初に聞いたみた話。
「10・20・30というコマーシャルを見たので相談したいんだけど」 10・20・30という言葉が市民権を得ているのが可笑しい。 「サラ金?」 「そうじゃなくて住宅のローンの話」 「高利の金でも借りたの?」 「以前ローンを組んだ、借り換えにしたら今までの金利の差額が却ってくるのかな?」 「いや、却っては来ないよ、グレーゾーンの時の話だから」 「じゃあ、毎月の支払いが安くなるなら借り換えをしたい」
という相談だった。 これは銀行に行って相談する話だけど、一応取り次ぐために聞いてみる。 先生が、年齢、仕事の有無、年収、ローンの回数、残債などを加味して考えてくれた。 60歳過ぎているし、仕事も殆どしていないので、借り換えは難しいですよ、と。 先生が付き合いのある銀行にも訊いてくれたらしいのだが、仕事がなく年収も少ないと難しいですね、となった。
ローンの返済で悩んでいる老人は多い。 かつての会社勤めの年収で組んだローンだが、会社をリタイアすれば収入は途絶え、年金だけでは払ってゆくのも難しい。 せめて、借り換えで金利が安ければという考えになるのも当然である。 しかし、客側は借換えというのだが、銀行にすれば新たなローンを組む話である。 したがって、現在の資産に応じたローンを設定する事になるのだが、収入が途絶えてしまった今となっては、銀行は貸すことは出来ない。そういう事である、 かと言って、じゃあ、なんで貸したのだと怒っても、そのシステムのお陰でローンが組めて家が手に入ったのだ。 今更文句を言っても仕方がない。 であるから、退職金で完済が出来ないのであれば、会社にいる間に借り換えなり、住み替えをしておかないといけない。 結局は今のマンションを売って、もっと安い所に住み替える話だね、となった。
老後はそれなりにシビアな生活が待っているのである。 いつまでも働こうね、我々の世代は。 大変な世の中だね。
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| THE JAZZ COURIERS (RONNIE SCOTT&TUBBY HAYES) “IN CONCERT” | - 2015/06/15
- THE JAZZ COURIERS (RONNIE SCOTT & TUBBY HAYES) “IN CONCERT” TEMPO TAP22 (UK)
10何年前に、ディスク・ユニオンの管理職が「テンポ・レーベルはイギリスのブルー・ノート」だと大宣伝をして、マーケットを煽った。 そのお蔭で我も我もという騒ぎがやって来て価格は上昇、あっという間に一時はテンポ盤なら、なんでも10万を超えた。 流石の影響力のユニオンだと恐れおののいたのである。 それが一通りマニアに行き渡り、更にリーマン・ショックで金融の信用失墜事件で、そのあおりを受け、急激に下落してしまった。 上がる時もテンポよく上昇したが、下がる時もテンポだけに、トントンと進んでしまったのか。 更に、最近は再発レーベルも触手を伸ばし「最後の秘境」と宣伝しまくった。 結果、廃盤でなくても再発盤でも良いという事になったのだろう。
当店にはこれが2枚も在庫がある。勿論オリジナル盤である。 盤の状態は2枚とも大変良好である。 それなのに、一向に動きがない。 そんなに大した事が無いのだろうかと、今日しみじみ聴いてみた。 ジャズ・クーリエとは面白いネーミングをしたものだ、何しろ飛脚である。 ジャズを国の隅々までお届けしようという意気込みだったのであろう。
最初のMCの声で盛り上がる。 主役はロニー・スコットとタビー・ヘイズの2テナー。 なかなかのテンションである。 このジャズ・クーリエは57年から59年まで続いた双頭バンドで人気を博した。 当時のイギリスにおいて、もう一方のトニー・キンゼイ・クインテットと人気を二分した、なにしろ相手にはジョー・ハリオットが居たのである。 ロニー・スコットもクラブ経営に乗り出し、クラブは大成功を収め現在に至る。 彼のテナーはオーソドックス・スタイルで人気があった。 それがアメリカで活躍しなかったのは薬のお蔭でキャバレーカードを取り上げられたからだという話もある。 しかし、英国にいた事が成功につながったのかもしれない。なんでもアメリカに行けば良いという物ではない、地道に母国で頑張っていた方が成功したかもしれないと思われるスポーツ選手が我が国にも多数いるのである。 モトエ。 1958年、英国でありながら、アメリカに負けないこれほどのテンションでジャズの演奏をやった事はおどろくべき事である。 シンバルの音などもオーディオ的にも好感が持てる。 曲も良いが録音も大変に良い。 なるほどイギリスのブルー・ノートとは上手い事を言ったものだと、感心した。だが、ヴァン・ゲルダーのような、あざとさは無く、自然の良い音質である所が好感が持てる。 耳触りも良く、ノリも良くて、文句は無い。
感想として、急激に価格が下がるほど、悪い内容では全くない。それどころか出来の良いアルバムである。 まあ、言ってみれば急激に上がり過ぎた結果の反動でこうなってしまった。 だが、価格が落ち着いた今、この辺りはチャンスがあれば手に入れておいても悪くはない。 と思うのだが...
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| ANN BURTON “ANN BURTON” | - 2015/06/14
- ANN BURTON “ANN BURTON” DECCA BU 70017 EP (HOLLAND)
かなりのレア盤の7インチ盤(EP)である。 そして、かなりの高額盤でもある。 それは65年ながら、彼女の初レコーディングであるから。 どうしたってまだ名が売れてないので数がないのだから、今となっては入手困難である。 今やリタ・ライスと並び称されるオランダを代表する歌姫、その彼女の初レコーディングで、大変興味深いアルバム。 オレンジ色の顔写真を見ると可愛い! 早速聴いてみよう。 ヨーロッパにおいては、日本やアメリカの3分間EPと異なり、かなり長尺である。従って、EPとは呼ばないで、セブン・インチと言われるのである。 4曲入りのセブンインチは一曲目「SINGS A RAINBOW」。次は「THE WILDEST GAL IN TOWN」曲も良く声も若々しく張りがありしっかりしている。 ひっくり返し、一曲目「MISS ORTIS REGRETS」、次は「KANSAS CITY」。 落着いた歌と、元気な歌を歌ってみた。 すべて歌詞の内容をかみしめて丁寧に歌った、ややハスキーな声が魅力で、それも素晴らしい出来である。 私は好きである。
戦前の1933年に生まれた彼女は戦争時代も知っている。何と言ってもオランダはドイツに占領されたのだ。 きっと人生の辛さも苦しさも子供時代から経験してきたのであろう。 戦後もそれなりに苦労したかもしれないし、そう思える歌の唄い方である。 彼女はずっとオランダで唄っていて、評価も受けていたらしいが、初レコーディンがこの時32歳の時になった。 それもデッカ・レーベルであるから、それは嬉しかったに違いない。 この頃からラジオなどでかなり仕事をやるようになっていた。 ところで、B−1の「MISS ORTIS REGRETS」を何故歌ったのだろう これは、変なというか面白い歌で、そうだ、以前にも書いた事がある。 ミス・オーティスは本日のランチには来られません。 彼女は振った男を、ガウンの下に隠し持ったピストルで撃ってしまった。 それを知った群衆が留置場から彼女を引きずり出し木に吊るしてしまった。 縛り首で処刑される前に、そう伝えてと言づけた。 という変な歌詞である。 この歌は、木に吊るされて死んでゆく美人の話ではあるが、良く考えて見ると、歌っているのは召使である。 吊るし首が平気で日常的に行われているような雰囲気も伝わって来るからには、南部のある街であろう。 その地方のちょっとした、金持ちたちのランチに招いていた女性の、男関係の問題である。 内容は、人殺しの女の「謝罪」の話で、街の「噂話」である。 何とも悠長で、暑苦しくて、かつ残酷な街であろうか。 この歌を歌っているのは、執事・召使または女中である。 それは、この街では「黒人」だった。 その召使いが、白人の誰が死んだって知るもんかと、面倒くさそうに、しかし仕事として馬鹿丁寧に報告するのだ。 それがこの歌の面白さで、召使たちがどういう風に報告するのかが見ものなのである。 故にエラ・フィッツジェラルドなど実に巧みに歌ったとも言える。
さて、アン・バートンが、そういう黒人ジャズ・ボーカルに挑んだのがこの歌では無かろうかと、私は思うのである。 エラだけでは無いと、私だってそのくらい、歌って見せると、勢いがあったのである。 そう考え訊くと、また興味が湧いてくる。 という私の独断ジャズ鑑賞である。
色々な意味で良いアルバムである。 欧米で1500ユーロも普通に超える、良いセブン・インチである。
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