HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。
  
| オーディオは他人の耳で買うな! | - 2015/09/18
- 友人の話が面白かった。
「マイクロ・トラック(MICRO-TRAK)」という木製のアームに何かのカートリッジを付け、これを知合いに譲った。 実は私も使っているアームなので、それは評判良かったでしょうと訊くと。 いやそれがね.....、と歯切れが悪い。 客から何だか不満だと言われたらしい。
それは購入者が、最初は素晴らしいと気に入っていたのだが、自慢したかったのかマニア仲間を家に呼んで、見せたのがイケなかった。 マニアに聴かせた所、「そんな木のアームじゃ駄目だ、オイルダンプでないと駄目だ」と言われた。 すると、持っているのも嬉しくなくなってしまい、本人の熱が引いてしまった。 音が気に入っていないのかと訊くと、そうではなく、音は気に入っているのだそうだ。 では、なぜかとなると、友人たちが褒めてくれない所か羨ましがられない事がいけなかった。 気が抜けて興味を失ってしまったらしい。 私などはオイルダンプなどは却って音が太く鳴り過ぎ音楽的にはどうかと考えてしまうのだが、オーディオが趣味の人はそれでいいのであろう。 それは大変だねと笑ったものの、こういう話は実はよくある事なのである。
ところで、 オーディオには絶対に重要な鉄則がある。 それは自分の耳で買う事。 それが出来ない時は授業料だと思う事。 とにかく「オーディオは他人の耳で買うな」という事なのだ。 出来ないんだな、これが。
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| 地区センターでDJ | - 2015/09/17
- 友人が最近、地元の地区センターでジャズ鑑賞会のDJならぬレコード担当を仰せつかって、月に一遍開催していると生き生きしている。
それで、時々来ては次の回にかけるレコードを探している。 暇つぶしで始めたものの、次に何を掛けるか、一生懸命に考えているうちに、あれもこれもと買う事になり、お金が掛かってとんでもない事になったと、こぼしながらも、実は顔は嬉しそう。
60歳すぎて、こういう生きがいがあるのが素敵。 自分の持ち物のオーディオ・セットを運び、おまけにコーヒーを出したいと言ったら、地区センターのおばさん達が、ハイヨとばかりに気軽に協力してくれ、お客で来られた方は一杯100円のコーヒーで、2時間ジャズが聴けることになった。
なにより、最近は老母の介護疲れの愚痴が多かったのが、ジャズの話も復活し、生き生きとした顔の表情を見られると私も本当に嬉しい。 いつまでも、こういうのが続くといいなあ。
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| 先日の日記で | - 2015/09/16
- 先日、マイルスの「KIND OF BLUEカインド・オブ・ブルー」のアルバムを100枚。
また、アルバート・アイラーの「BELLSベルズ」を30枚持っている人達がいると書いた。 すると日記を読んだ本人が各々、これは迂闊な事を言ってはいけないと、もう一度数え直した。 その二人の報告があった。
まず、マイルスの方。 95枚だったと。 数え直さなくても100枚はあるという感じである。 次にアイラーのお方。 46枚だったという。 こちらは、更にマニア度が昇格した。
マイルスの方は世界各国であるから、それなりに蒐集は大変だった。 アイラーの方は、ほとんどアメリカだけで、日本が少々、イタリアが少々である。 しかがって、どちらも前人未踏の大変な作業である。 2人とも、柔道のように段位を付けると、ほぼ6段くらいは行っている感じである。
なにより報告があったのがオカシイ。
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| VA(CHARLES MINGUS) “AUTOBIOGRAPHY IN JAZZ” | - 2015/09/14
- VA(CHARLES MINGUS) “AUTOBIOGRAPHY IN JAZZ” DEBUT 198 (USA)
ちょっと面白くて珍しいアルバム。 ただ今回は、ちょっと残念な事に、といっても例のごとくだが、片側のラベルが紛失してしまっている。 おまけに、厄介な事にAB面がさかさまである。 だが、状態は良いので勘弁していただく事にして。
それで、なにが面白いかと言うと、52〜53年くらいの時期らしくモダンジャズの初物など多くの未発表が収められている。 ジャズのアルバムには色々なオムニバス・アルバムがあるが、その中でも断トツに面白いのではないかと思うのである。 A-1 Max Roach は彼の初録音の中の一曲。 A-2 Jackie Paris がミンガス・クインテットをバックに淡々と歌っている。 A-3 Lee Konitz ミンガス・クインテットの中にコニッツがいて、大きくフィーチャーされたレアなテイク。 A-5 Paul Bley 10インチ盤に未収録の「サンタが街にやってくる」、これは凄い、スタジオの係りのオジサンが「Go! Go, go away! 」と閉める時間だからと追い立てらたセッションで、椅子を片付けられてしまい、途中から立ってピアノを弾いたとされる。執念のこもった録音である。 クリスマスにはぜひ聞いて頂きたい。流石の才能が伝わる好演奏である。 ベースがミンガス、ドラムがアート・ブレイキーというナイス・メンバーによる「サンタが街にやって来る」は珍しい。 B-1 Thad Jones ストリングスをバックに堂々と唄ったトランペット。 B-6 Max Rach 53年5月15日 あの有名なマッセイ・ホール(Jazz at Massey hall) でのソロ演奏。 ここのみに収録の貴重な演奏。司会者がマックスローチを紹介演奏が始まる、マイクがやや遠いが鬼気迫るドラミングは聞く価値あり。 B-7 Bud Powell これも同じくマッセイ・ホールでの録音。 パウエルとミンガスとローチのトリオなので、悪いはずもない。ローチのソロに引き続き司会者の紹介で始まる「I’ve got you under my skin」. 淡々として味わいのある好演奏。
という、音源がSPだったり、未発表だったりする貴重な録音ばかり。 そもそもDEBUTレコードは、ミンガスが自分の音源を世に出したいと52年に設立したものだが、自分のカラーが出ているので、こうして聴いてみると中々面白い。 やがてというか、あっという間に資金が尽きて、デンマーク人のスポンサーを見つけやっていたのだが、経営センスが無かったとかで、デンマーク人が母国に会社を移してしまい、しばらくコペンハーゲンで立派なアルバムを何枚も出して、活躍していた。 当時売れなかったかもしれないが、今となってはアルバート・アイラーなどの貴重盤が残った重要な働きをしたレーベルであった。 その。アメリカ時代のDEBUT盤の興味深い一枚である。
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| クレームのこと | - 2015/09/13
- 肉屋さんで店員と話をしていたら、こんな話が。
接客で何かの間違いがあったので客に謝った所、気分よく「いいよ、いいよ」と言ってくれた。 そうしたところ、すぐその後に本社から電話が掛かって来て、「今、客からクレームのメールが入っているが、一体何をしたのだ」と面倒になった。 店員にしてみれば、済んだ話ではなかったのかという、おかしな話。 本社からは、なぜ把握していないと余計に怒られて大変だったそうだ。
という話をして思い出した、ルノアールで働いていた人に訊いた話。 何かちょっと客に言われたので、一生懸命に謝った所、許してもらえた。 ほっとしていた数分後、本社から電話が掛かって来て、どうなっているんだと怒られた。 何が何だか、訳が分かくて困った。 要は「客は店員にいい顔をしていながら、その場で本社にメールでクレームを挙げ、本社から店員に怒らせて仕返しをするという事らしい」。
客はちょっと気に食わない店員を、自分の手を汚さないで、辞めさせてしまうような仕打ちをするらしい。 最近のクレームは絶対に自分では表に立たず、ダメージがあるやり方を平気でする。 本社もクレームの何が怖いのか、異常に反応する。 それとも社員いじめがしたいのか、解らないような状況になるらしい。
しかし、日本人も陰湿になったものである。
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| 趣味と仕事 | - 2015/09/12
- 義父の話のついでに、
彼は65歳になって、仕事の要職が解けてから、俳句を始めた。 あっという間に上達し、70歳を過ぎてから句集も2・3冊出した。 最晩年のある時、家に俳句仲間から電話が掛かってきて、何やら俳句の話をしていた所、相手は「仕事なんかつまらないから俳句の方が楽しい」と言ったらしい。 そこで義父は突然大きな声になり「私は仕事の時は人生のすべてを注いだ、今でも仕事があれば一生懸命にそちらをやる、仕事はどうでもよくないんだ、お金を頂いているのが申し訳ないだろ!」と、猛烈に相手に怒ったのだ。 いつもの温和な人から想像も出来ない、仕事に対する強い思いを、まだ持っているのかと驚いた。 と同時にそれを、電話を取り次いだまま横でぼんやり聞いていた私が申し訳ない気持ちになった。
だって、私は仕事よりもジャズばかり聴いていたから。
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| 洞爺丸台風 | - 2015/09/11
- 洞爺丸台風は、私は小学生だったが、毎日の新聞で父親などが騒いでいたので当時の記憶にある。
しかし、私の義父が洞爺丸事故に関係していて、家ではその話は禁句だった。 だが興味津々の私は結婚後何年も経ち、もう親父も文句は言わないだろうという頃を見計らって聴いてみた。 重い口をついて出た話である。 義父の名前は唐沢勲という。 しかし、だからといって台風でも事故の話でもなく、仕事と出世の話である。
洞爺丸事件は昭和29年(1954年)9月26日に青森と函館を結ぶ青函連絡船が台風の中、出港し事故にあったものだ。 通常、台風は日本に一旦上陸すると徐々に弱まるのだが、その時は日本海に抜けたあとも発達を続け勢いを増しそのまま津軽海峡に向かい、再び今度は日本を西から東に横断したのだ。 ひとつの台風が2度も日本に上陸した珍しい例である。 当時はレーダーなどもなく、天気情報は米軍からもらっていたくらいで、船長の判断に任されていた事、ちょっとの遅れが北海道の経済に及ぼす影響が大きかった事、洞爺丸が最新鋭で不沈艦などと呼ばれたい事もあり乗客が早く船を出せと騒いでいた事などが重なった所に、ちょうど台風の目に入った為に急激に風が弱まったことで台風が去ったかと勘違いし出港したとされる。 結局、出港後に猛烈な台風に襲われ座礁、転覆となり、死者行方不明者1500人以上という、世界の船舶三大事故にあげられる大惨事であった。 しかし、それは誰も責めることが出来ない事態で、当時他に港での混乱を避けるために、わざわざ港内から脱出し錨を下ろしていた青函丸、北見丸、日高丸、十勝丸も相次いで怒涛の中転覆したのである。 台風の中、なす術は無かったとも言える。
当時、唐沢は国鉄にいて本社の旅客営業局長という今でいう事務次官にあたる要職にあったのだが、この事件ともう一つ、昭和30年(1955年)の宇高連絡船の紫雲丸事故が続き、国鉄を引責辞任したのである。 次の国鉄総裁という話もあったほどだったので、それまでの人生の輝かしい出世は途切れた。 当時の男の子には、「末は博士か、大臣か」という時代である。 ちょうどテレビが普及し始めた頃で、テレビの映像で「官僚が初めて謝罪した大事件」となった。 「俺がテレビで謝った第一号だからな」とよく言っていた。 次の国鉄総裁となった磯崎は後輩なのだが、「テレビで先輩が謝っている情けない姿を見て発奮した」と話していたそうだ。
国鉄を辞めた後は、人生が終わったと文字通り家でぶらぶらしていたが、その後群馬県の建設会社から誘われて少しの間世話になっていたが、専門も異なり、あまり役に立たないので悪いからと、そこも辞した。 再びぶらぶらしていたが、その間、奥さんは一度も文句を言わなかった。
3年程たったある日、五島慶太の運転手が家にやって来て「話があるから連れて来いと言われたので、乗って下さい」と勝手に待っているので、そのまま車に乗り込むと、東急電鉄本社で慶太が待っていて「挨拶にも来ないで、お前は何をぐずぐずしているんだ、明日から出て来い!」と怒鳴られ、仕方なく東急に行くことになったのだ。 実は、唐沢は五島家とは付き合いが長く、叔父の唐沢俊樹は当時法務大臣で、五島慶太とは東大時代からの友人であり、その縁もあって五島昇の家庭教師として何年かを一緒に過ごした事もあり、長年の付き合いであった。 故に、よけいに東急に行くことは天下りとされるのが嫌だった事と、まして大きな事件のあと、のこのこと東急に行くことが自分の好みに合わなかったという。
官僚など出世と金の欲ばかりの連中だと、私は決めつけていたのだが、昔の話を聞いていると出世欲はあるが金銭欲はなく、意外に真っ当で正義感が強く、国の為なら命など要らんと言う、堅物でかつての官僚はこんな正義の塊だったかと、やっと開いた口から、話を聞く度に驚いたのであった。 戦中、戦後と組織を引っ張って来た人たちは、この国を何とかしようと言う気合があって、常人とは違って凄いなあと思った。
台風の話ではなくて、その後の人生の話だった。 人生設計など順調に行く人の方が少ないという事で。
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| 台風の話 | - 2015/09/10
- 9月1日は防災の日。関東大震災のあった日ではあるが、伊勢湾台風から一年経ったところで、あの衝撃の台風も含めて、制定のきっかけとなったのだ。
その伊勢湾台風とその5年前に起きた、洞爺丸台風が私にとって、歴史的な台風となった。 その日にちを見たら、これ等の二つの台風は、奇しくも9月26日に起きた事なのである。 伊勢湾台風は昭和34年(1959年)、洞爺丸台風は昭和29年(1954年)に起きた。 色々な意味で、記憶にあるし、関係があるので、ちょっと思い出して見た。
まず伊勢湾台風。これだけは私も忘れない。 故郷の長野県ではよく台風が来た、雨が徐々に強くなり、それに伴って風が強くなるに連れて、私は子供ながらドキドキした。というより、栗が落ちたり果実が落ちたりして拾う事が出来るのでワクワクしていた、と言った方が当たっていた。 台風が来るのが面白かったのである。
それが、伊勢湾台風だけは違っていた。 中学1年だったと思う。 伊勢湾沿いに名古屋辺りから木曽川に沿って、猛烈に強い風と雨を持って、その地域の最も弱点を付き、次々と被害を出しながら北上したのである。 夕方から強風になっていたのだが、夜になって猛烈な風になった。その内に例によって停電になり家のあちこちにロウソクを立てたりして息を凝らしていた。 そんな日にも関わらず、母はお風呂を沸かしていたが、父は「こんな時に何をたわけた事をしているのか」と怒っていた。 雨戸などは、父と私も一緒に手伝って、あらかじめ厚い板を外からしっかり釘で打ちつけてあったので、まだ何とかなったが、時々ゴーッという音と共に内側にタワむので、恐怖心があった。 頑丈なはずの我家も、ゴーっという激しい音がくると、流石にギシギシと柱や梁が鳴った。
翌日は台風一過の秋晴れであるが、見れば近所の家でも被害が出ていた。 近所の叔父さんの話によると、夜中に心配で見ていたら、ある大きな家の屋根が凧のように空を舞ったのを見たとか、風で窓が割れた瞬間家の中に入った風が、勢いでそのまま、屋根を持ち上げるとか、それは今まで聞いた事のない話しが続出した、暴れん坊の台風だった。
翌日、学校に行くと、生徒に緊張感がみなぎっていた。 朝礼で校長先生が、生徒のだれそれの家が壊れた等と発表され、これからチームに分かれて手伝いに行く指示を受けた。 それで私達のチームが同級生の家に向かった。 途中の田んぼでは稲がなぎ倒されていて、農家の友人たちは、ウチでもどうしようも無いと嘆いていた。 友人宅に着くと、壊れた家で友達がガックリしてうつむいて、むき出しになった家の土台に座り込んでいた。 声を掛けると弱々しく肯くのであった。 屋根を失った家には空しく柱が立っているだけで、それは悲惨な状況であった。 とにかく片付けを手伝ったものの、しばらくするとその父親からは、悪いのでもう結構だからという事になり早々に引き上げた。 まあ却って足手まといだったに違いない。 それでも3日間くらいは続けたと思う。
周囲の山一帯にあるヒノキの国有林も台風で相当被害を受けた。 100年や200年以上のヒノキの大木が相当数倒れてしまい、また倒れなくても泥水を吸い上げてしまった材木には染みの黒い線がすーっと入ってしまい一級品とはならず、地元の材木屋に大量に払い下げられたのである。
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| 崎陽軒の「しゅうまい弁当」 | - 2015/09/09
- 雨も激しいので今日のお昼は、崎陽軒の「しゅうまい弁当」。
時々食べたくなって買ってくる。
この弁当は、横浜駅の弁当として昭和30年から、そのまま全く変わらない味と内容を誇る、恐るべしロングラン。 もう何年だろう、考えると60年か。 私の周囲にもこの弁当のフアンが多く、皆一様に時々買いに出かけると言っている。
又、ファンはみな弁当の内容にも詳しくて、会社のホームページなど見る必要もないらしい。 シュウマイ4・5個、鮪の照焼、卵焼き、蒲鉾、竹の子のサイコロ煮つけと、いつもの変わらぬラインアップも人気の秘訣。 更に、ここの弁当は冷えても美味しいという事である。 という事で...。 いただきま〜す。
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| 朝、 | - 2015/09/08
- 朝、コーヒー屋に行ったら、なんだか物々しい。
訊けば、冷蔵庫が壊れたので、入れ替えだと。 壊れたのは理由があって、霜取りをしていたのだが、もういいかと思い氷を叩いてしまった。 すると翌朝出勤してみたら、ガスが抜けてしまっていたという。
後悔しながらも、販社の担当に電話すると、フロンガスなので修理に10万円、新しく購入してもあまり変わらないと言われたので、買う事にしたと。
ちょっと前の冷蔵庫は家庭用でも、霜取りをしないといけなかった。 叩くなと必ず書いてあった。
それからみると確かに、最近の冷蔵庫には霜取りの心配はない。 さらに最近のは省エネになっていて、電気代も安い。 時代は進むなあ。
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