HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。
  
春一番 | - 2025/03/16
- そういえば、もうすぐ春分の日。
テレビでも、今年は春一番が吹いたという天気案内を聞かなかった。
春一番とは立春から春分の間に、吹く南からの強風で気温も上昇したものを言う。 正月が明けてから、立春という声を聴くと、毎年、春が近いかと、春一番の吹くのを待っているのだが、春は来るのか。
そう言えば、東京では春一番は南風だが、地方により西風だったりするものらしい。 狭い日本でも天気の違いはあるものである。そりゃそうだ。
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新入荷リスト | - 2025/03/15
- 本日、3月15日(土)、HPの通販リストを更新致しました。
よろしくお願い致します。
ここのところ、寒い日と暖かい日が交互にやって来る、三月は三寒四温の天気か。 「三寒四温」という単語は、韓国の春先の天気の特徴であると、昔、学校で習った。
やがて日本でも盛んにテレビの天気予報でも使われていたのだが、最近はあまり聞かなくなった。 きっと三寒三温では具合が悪いと考えたのだろうか。
どうでも良い話であった。
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花冷え | - 2025/03/14
- もう少し経つと、桜が咲く、多分1・2週間後の事かと思われる。
その頃に「花冷え」という言葉が出て来ると思う。
花冷えとは良い言葉であると思うのだが、なぜか気取ったというか、いやらしさが感じられる。 そのイラッと感はどこから来るのだろうと、調べてみたら、かつて江戸時代以前にはそのような表現は無かったと。 大正の頃から、京都で女性中心に広がった表現だという。
京女ね、なるほど、洒落た言い回しである。 しかし、なんか嫌らしさが感じられると思ったはずだ。
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大ガード交差点 | - 2025/03/13
- 店の近くの、主要国道の大ガード交差点は新宿駅から大久保方向に向かって日中は右折禁止になっている。
だが昼頃、一台の乗用車が右折しようとしている処に、パトカー遭遇。 大きな音声で右折禁止ですよ!と叫ぶも、乗用車動じる気配もない。 3回ほど、更に強い調子で右折禁止を命じたが、乗用車はそのままの姿勢。
やがて、何か言いながらパトカーは去って行った。乗用車もゆっくり右折して行った。 その後、停車を命じられた様子はなかった。
多くの公衆の面前で、違反者を見逃す警察もあるんだね。 見物人は笑っておった。 面白いものだ。
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メッテル先生 | - 2025/03/12
- クラシック音楽の古い雑誌を見ていたら「朝比奈隆氏の師メッテルは、指揮者ドブロウエンと同じタニェエフ グラズノフ門下の逸材だった。だがロシア革命は二人の立場の明暗を分けた。ドブロウェンはパリに逃げたため結構な名指揮者となり活躍したが、日本へ亡命したメッテルは不遇のまま名声を上げぬまま寂しくアメリカへ渡り死んだ。」
メッテルの不幸が悲しい、という話。
クラシック好きにはエマニュエル・メッテルの事は今更、かもしれないがあえて書きたい。 メッテルが確かに日本に逃げた事は失敗だったかもしれない、だが、西か東か、其の選択はいづれも命がけであった。 メッテルは、まずはシベリアへ向かい、しばらく滞在し音楽活動もしたのであるが、やがて日本に行くことになった。それには理由があって、バレリーナのエレナ・オソフスカヤと結婚していたのだが、彼女が先に神戸に来ていたので、追いかけて来たのであった。 京都に暮らし、日本の音楽界の功労者になった。 だが、それにも拘わらず、戦時中の事、楽団からも徐々にスパイと疑われるようにもなり、彼は再度、1938年妻と共にアメリカへ亡命する。
いずれにせよ、ロシア革命でのユダヤ人迫害の凄まじさはナチスの横暴に隠れてあまり騒がれないが、ナチス以上だったという話もある。戦時下、ユダヤ人は逃げ惑う事になったのである。不幸は重なってやって来るものである。 そして、不遇のうち1941年ロサンゲルスで亡くなった。
彼は日本の音楽振興に尽力し、弟子には朝比奈隆もいれば山田耕作も、服部良一もいる。奥方のエレナの方は宝塚歌劇団の初期の大功労者でもある。 夫婦とも、日本の音楽クラシック・ポピュラー、歌劇の大功労者なのである。 そんな恩のある話も忘れているよね。 奥様もそうだが、メッテル先生という称号だけでは可哀想すぎる。
思うに芸術家は、戦時下であろうがなかろうが、パリに行った方が勝組だったのだ。 これはどうしようもない。
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3月は別れ | - 2025/03/11
- 運転中、ラジオを聴いていたら、川柳の投書があって、思わず聴いてしまった。
物忘れのひどい年配としては、一時間後になっても珍しく覚えていたので書き出す。
「先輩の 第二ボタンと 夏を待つ」 高校二年生の女の子の投書であった。それを番組スタッフが意味を追いかけたところ、卒業した先輩に「第二ボタン下さい!」と勇気を振り絞った。更に「好きです!」と追い打ちをかけて、告白してしまった、そうしたら先輩から、夏頃帰ってくるから、その時、食事でもしようと言われたとの事、またラインも交換してもらった。これを機会に勉強して、自分も東京の大学に行こうと奮い立った、という健気な話であった。
そういえば以前、斉藤由貴の「卒業」という大ヒット曲があった、1985年のこと。 「制服の胸のボタンを、下級生にねだられ、頭かきながら逃げるのね、本当は嬉しいくせに」という具合に、彼女らしき子からの、男を観察した様子が歌われる。 近くでその光景を目にした彼女にしたら、ちょっとヤキモチの嫌な心情は、10代にはどうして良いのか分からない。 さもありなん、可哀想に。
1987年には松田聖子のヒット作、赤いスートピーのB面に「制服」という歌もあって、個人的にはこちらのB面の方が断然好きなのだが、それは置いといて。 歌詞は、「4月から都会に,行ってしまうあなたに,打ち明けたい気持ちが,でもこのままで良いの、ただのクラスメイトだから。」更に、「雨に濡れたメモには,東京での住所が,握りしめて泣いたの,そう,このままでいいの,ただのクラスメイトだけで」という、懸命に忘れようとする、消極派の女の子の切ない胸の内。 自分に自信もない、人生に正解など無い、葛藤をねじ伏せる、やるせない10代の胸の内。
何しろこちらはお互い卒業する三年生、何をするにも切羽詰まっている、告白するには遅すぎる、互いに進路は決まっていて、来年の恋の希望も持てず、上手くいっても遠距離恋愛、初恋から遠距離とは切な過ぎる、高校三年生の3月は、別れの季節。
これからは、これらのような、可愛い歌などないだろうな。
若い時からすでに人生いろいろ。 いつの世も 春は別れか 闇の梅 クラスメイトは 切なさだけか
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看護で... | - 2025/03/10
- 家内の骨折でここ一月ほど看護をしている。
それが、大変疲れてイラっとする。
そう言えば、お腹の周りが93センチに減った。 今まで95センチもあって、病院で成人病危険区域と言われていたのだが、ちょっとの努力で減ることが無かったのだが、なんと家内の看護の仕事のおかげで2センチも痩せた事になる。 体重も3キロ減っていた。
どんな時にも、すこしだけ良い事もあるものだ。
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コーヒー | - 2025/03/09
- 家から歩いて行ける範囲、といっても桜台という場所で20分も歩くのだが、ちょっと洒落た喫茶店があった。店は「ARATA」という。
気になっていたので、行ってみたら、結構なコーヒー。 みればネルドリップであった。
やっぱりネルドリップで入れたコーヒーは美味しい。 味と香りがしっかり濃い目に出る。 濃い目のコーヒーはコーヒー本来の味わいがある。
私が気に入っている喫茶店の下高井戸の「2−3」もドリップで、多めの量のコーヒーで淹れてくれる。
ハルズの近くで言えば、但馬屋。
とにかく、ドリップで淹れる喫茶店が減った事は間違いない。 なんだかね。
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閉店時間 | - 2025/03/08
- 昨日からの予報では、午後6時ころから雪の予報。
そのとおり、4時過ぎには新宿も雨になってきたので、店を閉めて帰宅した。クルマだし、スタットレスでは無いので焦って帰ったのである。 家に着いたら、家の庭に雪が少し積もっていた。 東京は1・2月に降らずに、3月に雪が降ることがよくある。 おかしな所だ。
そう言えば、霞が関周辺では、財務省解体のデモが結構行われているらしい。 しかし、大蔵省を解体すると、本当の無政府状態になるなあ。 無政府主義者はそれがねらいか? 面白いデモがあるものだ。
もう一つついでに、最近夫婦別姓の運動が左翼から、盛んに言われる。 夫婦別姓は共産主義の第一歩。 家族と言う社会を築く単位がなくなり、結局、子供は国家管理になる。 共産教育がしやすくなり、結果、もろもろの政権運営が永遠になる。 私は家族は大切にしたいと思う。 別姓は最早家族ではなく、実体のない便宜的家族関係でしかない。 それでもいいのかな。 女性の仕事上の旧姓使用はいくらでも方法はある。
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トランプさん | - 2025/03/07
- トランプ大統領が日本を守る理由はないと言明。日本人を嫌っているトランプさんならでは。
遡る事、80年前。 80年前頃は、アメリカは白人天国。 白人の男が黒人の女を自由にすることが許されたが、黒人の男がたとえ少しでも白人の女に話しをしただけで、恐ろしい運命が待ち構えていた。 例え家族が射殺されても、目撃者がいたとしても、黒人は誰も証言などする人はいなかった。 それは黄色い人でも同じこと。
日本では人種差別という言葉で胡麻化されているけれど、アメリカにおいてそれは差別などという簡単な言葉ではなく、「人」と「家畜」の違いであった。人と見なされないのであった。 ジャズの盛んな南部は余計に酷かった。だが、北は良かったと思ってはいけない、余計に貧乏になっただけである。当時は世界中が、乱暴で、暴力的な世の中であった。 差別よりもっとひどい差別であったが、アメリカだけがひどかった等と思ってはいけない。
その時に、日本はアメリカに戦争を仕掛けたのである。 なぜかと言えば、国として認められないような酷い仕打ちを受けたからである。 次ぎ次ぎと無理難題を吹っ掛け、現代の日本の状況からは考えられない、酷い仕打ちであった。 一例を上げると、差別対象である日本が、何故、白人の国と同じように植民地を持っているのか、許しがたかったからである。白人たちが考えるに、植民地は白人たちの特権であった。
日本は、白人のからかいに、つい乗ってしまい暴力を振るってしまった可哀想な日本の坊やなのであった。 脅されれば脅されるほど軍は強くなり、東条秀樹の馬鹿さと、世間知らずの天皇のおろかさである。 今の北朝鮮の方がはるかに賢く、国際社会の圧力から逃げ回っている。 当時は、アメリカから仕掛けられた罠に気が付かなかったほどのお人好しであった。 だが、あの戦争で目が覚めたというより、目を覚まされた日本政府はようやく国民に目が向いたので、それはそれで当たりだったのかと考えられる。 押しつけではあったが民主主義国家になった。 しかし、それからがいけない。 植民地支配から、脱け出す事を一度も考えない国民と政府になってしまった。それほど前が悪かったからでもあるが。 いや、独立を考えた指導者は必ず降ろされるか死の運命になるらしい。 植民地からの独立は容易ではない。 トランプさんの苛めがきっかけで独立に動けるかな? 無理だろうな、「お願い」と「お金」しか方法を知らないのだから。
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