HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。

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LAPSANG SOUCHONGの事
2011/09/06

「CHINA LAPSANG SOUCHONG」(ラプサン・スーチョン)と言う紅茶がある。
初めて飲んだ人はクスクス笑う、それは正露丸の味であるから。
中国の福建省武夷山市で作られる紅茶で、松で燻す事により芳香がつき、独特の味わいの紅茶である。この周辺は当然、高級な中国茶を産出している場所である。
この紅茶の燻蒸に使われているのが「馬尾松(バビショウ)」と呼ばれる松である。当然中国南部や台湾などにしかなく、日本には無い。
ここまでは私の浅はかな知識。

とても本物は見られない。ところが「馬尾松」を遂に見た。
その木の本物は先月の日記に書いた陶芸家の島田先生の窯場で、燃料の話から、見せて頂いて、とても驚いた。
日本に通常ある赤松とは松脂の含有量が大きく異なるため、重量がまったく違っていて、赤松3,7%に対し40%という驚異的な数値を示す。
私も材木屋の倅であるから、その凄さは分かった。
先生の青磁はこの松なくしてあり得ない。
ところでこの松の入手はどうしたか?大きな疑問が湧き、中国から輸入かと尋ねると、意外にも沖縄にあったと。
なぜ沖縄にこんな松があるのか?とまた大きな疑問が湧き、更に突っ込む。

そこで先生の話。
「琉球は中国との貿易において、最も不可欠だったのが今で言う灯台であった。
ところが日本の松はパッと燃えてしまい火持ちが悪く使い物にならない。
何としても火が長持ちする松が欲しかった。
それで当時琉球は中国から火持ちの良い馬尾松の苗を譲ってもらった。
国策としてこの木を大切に育て、政府として種の保存と伐採管理に努めてきた。」
今となっては一部の人を除いて、そんな事は忘れ去られた。

実は、最近NHKを筆頭にテレビなどで日本の文化は朝鮮からと、盛んに報道されるので、私はちょっと待てよと考えていた。

実際、当時最も進んだ中国文化を取り入れようと考えるに、国として朝鮮という間接法を取って何の得があろうか?
あろうはずもなく、帰って貿易の中間搾取があるだけである。
直接中国から受け入れた方が理にかなっている。

話は飛ぶが。面白い事に、この間読んだ本に「白洲 正子と加藤唐九郎の対談集」があった。
その中で唐九郎が、焼き物が朝鮮から来たと断定する専門家も多いが、自分はそう思わない。
出発点はそうだったかも知れない。しかし、日本から注文をした結果の焼き物であって、そうでなくては日本人の好みの繊細に合致していない。
仕舞いには日本人の陶工が現地に行って仕事していた、と断言していた。
簡単な話ではなさそうである。
私も当時の日本人の好みがどうも朝鮮の焼き物とあまり一致していないのではないかと思っていたので、やはりと合点がいった。

まして、当時の中国文化は断トツであり、たとえ朝鮮王朝といえど日本からどうしてもお伺いを立てるほどの文化水準に達していなかったはずである。

ここは直接的に、中国に仕入に行ったと考えるのが良かろう。
しかし、船の旅は困難だったと遣唐使の例を挙げられると、私も沈黙するしか無かったのだが、今回島田先生の一言で、私の心の中は、やはり琉球を間にして盛んに往来があったと考える事が政党であろう。

火が消えることが無い、樹脂の成分の多い松の出現が、中国・琉球・日本間の航海に大いに役に立ったに違いない。
私としては非常に大きな仮説の証明であった。

でも、私が言ってもどうしようもない....。

ひど過ぎ
2011/09/04

用事で静岡西部まで東名を走ったのだが、遭遇した交通事故の数が半端ではない。余りのひどさにショックを受けた。

まず行き。追突が3つ。
またスリップして、ガードレールにぶつかって止まっている、インプレッサや日産のZ。
スポーツ・カーに乗るなら運転技術磨いておけ!と一人で悪態。

帰りがまた凄い。自爆・追突多数。
駒門SAの手前で、旧型GTRと大きなトレーラーが衝突したらしく、GTR大破、一面に破片が散乱。一体どうやったらこういう事故になるのか考え込んでしまう。
その後横浜の青葉インター近くで、トラックが道路を横断して横たわっていた。
真っ暗な雨の視界の悪い中、まだパトカーなども到着する前だったらしく、極めて危険。

東名は日本の大動脈と言われる割には2車線しかなく、実際は毛細血管程度。
また走るトラックの量が異常に多い。80キロ制限にしたい警察の気持ちも和分る。しかし、故に遅い車がのろのろと平気で追い越し車線を走る。
トラックなどは車線変更する際、ウィンカーを出したと思った瞬間、いきなりハンドルを切り始める、邪魔だとでも意思表示しているかのようで、危険極まりない。
晴れた日のスピードの遅さに比べ、悪天候時のスピードが速すぎる。
それでは運転する人々の気持ちが焦ってしまう。みんなヘンになるはずだ。

しかし、一日で事故を大小10件近く目の当たりにするのは、良くない。
最近地方も国もお金が無いらしく路面は悪い。雨など降ると水たまりは出来、深く走りにくい。
しかし、それでも、どう考えても道路行政の責任ではなく、運転者の雨の路面の見極めが悪すぎる。
トンネルを出たところでガードレールにぶつかっている車は中と外の雨の量の違いを計算せずに、ハイスピードで大量の水にハンドルをとられたようだ。
状況判断が悪すぎる。
一体、最近の日本人の運転の下手さはどうしたのだろう。

もっと走行マナーや、路面の見極め、慎重さ、運転技術などを考えないといけないと思うが、だが、そう言ったとて、普通は運転の練習などする場所もない。
だから運転は下手でも良い、譲る精神と、状況に見合った運転を心がけるよう。
 車線変更は慎重に!あなたのせいで5台後ろが追突している。

オリンピックの顔と顔
2011/09/03

オリンピック好きとして時々、当時のスポーツ選手の本などを読んでいる。
それで、ふと東京オリンピックの花と言われたベラ・チャスラフスカとスケートのカタリーナ・ヴィットを比較してしまった。双方とも共産圏の選手であり、オリンピックで二連覇し、美貌で有名な選手という二人には共通点が多い。ところが生き方がまったく違っている点に私の触角が動いてしまった。

ベラ・チャスラフスカ。チェコスロバキアの体操選手で1942年生まれ。
64年東京、68年メキシコと個人2連覇。
東京では「東京オリンピックの花」と言われ大人気。ぽっちゃり好きの私も忘れません。モトエ。
68年、共産主義からの脱却を図った自由化運動「プラハの春」では「二千語宣言」に署名。チェコ自由化の代表者の一人となる。
しかしソ連侵攻で状況は一変。彼女は逃げながら練習を続けるも事態は悪化の一途をたどるが、運よく同年開催のメキシコ大会の名簿には何とか彼女の名前はあった。

やつれ果てた彼女の姿にオリンピック会場では誰の目にも入賞も不可能と思われた。ソ連憎しの圧倒的な観衆の応援と熱狂に動揺した優勝候補のソ連のクチンスカヤの奇跡(?)の失敗の連続と、奇跡的な彼女の演技の成功により、黒いリボンと黒いレオタードの彼女は優勝を遂げる。観衆のブーイングで点数が0.1上がった稀な例でもある。
過去オリンピック随一のあり得ない奇跡であった。

しかし、帰国した彼女を待っていたのは祖国の共産化と投獄の恐怖。多くの文化人が共産党の圧力に屈して行った中、彼女の消息も絶たれた。それから暗黒の長い21年。
1989年ベルリンの壁崩壊から周辺諸国も次々と共産独裁は崩壊し、自由化が進められた。チェコでは「ビロード革命」と呼ばれ、プラハの春の主要な人々が復活し、その中に彼女の名前もあった。その後も不幸はあったようだが復権した事が大きい。
元来、彼女は政治的な信念の強かった人では無かったようだが、何がそこまで頑張ることが出来たかというと、「人間は自由であるべきという信念に従ったまで..」という事であるらしい。
彼女の言葉として「スポーツ選手として、人間として今私は言わせてもらう。私は卑怯者ではなかった…』。本のこの部分を読んで涙が出ない人はいない。
こういう事が言える人間は一体この世に何人いるだろうか?

カテリーナ・ヴィットは旧東ドイツのフィギュア選手で1965年生まれ。
こちらも84年、88年とオリンピック二連覇。
妖艶な振り付けと表情で人気の頂点となった社会主義国家ナンバーワンの美貌とも言われた。
美しい容姿に似合わず、かなり強気な発言が目立ち、共産主義の素晴らしさをマスコミの前でも大絶賛していた選手でもある。競技場でも人生の場においても強気な選手であった。
当時の東ドイツのホーネッカー国家評議会議長にも可愛がられた選手でもある。
89年東ドイツ共産政府が崩壊後は、愚図愚図せずに直ちにサッサとプロに転向。
94年のリレハメルオリンピックにも出場を果たし、試合では反戦歌「花はどこへ行った」の曲でサラエボへの思いを込めたと報道される。
彼女の事を歴史に翻弄された人として書かれた記事などを時々見ることがある、しかしほんとに歴史に翻弄されたのだろうかと、私は深く疑問に思う。

前者は共産社会から自由への信念を貫き通した気高さがある人であるのに比べ、後者は共産社会にあって巧く立ち回り、ベルリンの壁崩壊後はたちまち自由主義を活用し、94年のリレハメルオリンピックでは反戦歌「花はどこへ行った」を持ってくるあたり鉄面皮の人生感を持っていて、プロとしてなかなかどうして、オリンピックの場においてもその後の人生に影響がある事を見抜いているのも流石で、人生においても生き方のプロフェッショナルであり、人生の演技の上手さも見事である。

普通の人ならあれだけ声高に共産主義万歳を叫んでいたら、反戦歌など言えたものでは無いが、彼女が言うと世界中が拍手喝采となるところが素晴らしい。

最近のオリンピックでは、私はちょうどヨーロッパに出張中で、ドイツの中継映像をホテルのテレビで見た。すると彼女が解説で出て来て、もちろん昔の片鱗も無いが、何だか相当の地位にいるようで、堂々とテレビで話をしているから、生き方も相当のプロに違いない。

時代が違うと言えばそれまでだが、現代はきっとこういう人の方が受けるのだろうと思う。
世界的な傾向なのかも知れないが、この世は、世渡りが大切だ。

私にはチャスラフスカの人生の凄さと言うか、凄まじさがひしひしと伝って来て、巧みな生き方よりも、生きる事の意味の凄さが際立つ。


長文で申し訳ない。
ふー

関東大震災
2011/09/02

昨日は震災の日とかで、NHKでも取り上げられた。
ところで関東大震災は焼死者数が非常に多いのが特徴で、確か「吉村昭」の関東大震災という本で読んだ記憶がある。間違ったらいけないので探したのだが、本が出て来ないのでうろ覚えである。

地震が起きて、ちょうど広大な空き地になっていた本所被服廠跡に、多くの人々が逃げた。安心したのも束の間、結局その場所にも火が廻り、火の竜巻・突風となり、本所だけで4万人が焼死という悲惨な結果となった。
その理由は逃げるのに精いっぱいで、その場にいた市民の消火活動などが行われなかった事も大きいが、何よりも、大八車や担ぎ込まれた家財道具の量が非常に大きかった。
荷物を背負った人々の動きの悪さ、また通行を妨げだけでなく、担ぎ出した大量の荷物と木が「火」を呼ぶことになったのである。

かつて江戸は何度も大火に見舞われたので、消火に関する規則が厳しく、火事の際に大八車を使用した場合は死罪という事さえあった。それは消火活動を著しく妨げることであり、犠牲者の数を増やすことに繋がるからである。それに加え町民たちによる防火システムが出来上がっていた。
長い年月をかけて木造で燃えやすい江戸の町を、火事の被害から救う事に相当成功してきたらしい。
それがなんと明治維新で兎に角、江戸時代の規則を否定し、古い因習を破壊せよという事になり、せっかくのこういう培ってきた良い手法までもが否定され、捨て去られたのである。
そういう新政策の結果が関東大震災の被害なのだそうだ。「逃げる時は何も持たない」という鉄則が忘れ去られたのである。人は学習しないのだ。
幸か不幸か、大正時代は水道が引かれ消火設備も備わったので市民の安心が慢心に繋がった。
また時代が進み学校の数が増え、学校の備品である薬品が地震で落ちたりして出火の大きな原因になった。実際、家の失火などより学校や工場の失火の方が、被害が広がるものらしい。

私の場合「地震などで逃げる時は、何も持たない事」と決めている。

そういえば墨田区横網、私はつい「よこづな」と読むのだが「よこあみ」と読む、は本所被服廠跡地のあった場所なので、震災の身元不明の遺骨を納めた「東京都慰霊堂」となった。 
その後の大東亜戦争時、更に倍近い人数の被害が出た東京大空襲の身元不明者の遺骨を合祀して慰霊してある。

靖国神社と違って、こちらに政府要人が参拝したというニュースは聞いた事が無い。
一般市民の所など行かないか?

田園都市線に乗って
2011/09/01

田園都市線で美容院に行こうとしていたら、美容師さんから何時頃着きますか?というメールが来た。

ちょうど三軒茶屋だったので、ケータイに「さんげんぢゃや」と中々打ち込めないでやっと「三軒茶屋です」と打ち終わったら、電車は駒沢大学前。

あちゃ、と思いながら慌てて「駒沢大学前です。3時頃着きそうです(^O^)」等と必死に打ち込んで、やっと送ろうと思うと、トンネルで地下なので送れずモタモタしているうちに、もう次の桜新町。

こりゃまずいと思い直し、焦って桜新町と打ち、送ったのが二子玉川園の手前。

私の携帯を打つスピードより電車のスピードが勝った、という事だからね。
ふー。
電車の中で携帯電話使わせてくれい!
チクショウ!


KENNY DORHAM
2011/08/31

KENNY DORHAM " ROUND MIDNIGHT AT THE CAFE BOHEMIA" BLUE NOTE 1524

ケニー・ドーハム(24−72)は私の好きなジャズ・プレイヤーである。
我が国の評論家たちは彼の事を天才とは呼ばない。どちらかと言うと冴えないトーンの部類に入れている節がある。
だからあえて私は言おう「彼は十分天才である」。

彼の音質はやや素朴である。しかしビバップ発祥からハードバップの当時の中にあって一線で立派に通用するアメリカを代表するトランペッターであり、哀愁漂う音色は非常に魅力的である。

彼は1924年生まれでパーカーやモンクなどとの演奏も経て来ているからジャズ界のエリートでもある。
この演奏の56年はJAZZ-PROPHETS等もありAFRO-CUBANの55年と一つの頂点であった。バリバリのハードバップから哀愁たっぷりのバラードまで実に気持良く聴く事が出来る。この作品などはアーシーで特に素朴感が出ていて好きだ。

ジャケットは暗い青のトーンのモノクロで、彼がマイクを持って挨拶か次の曲の紹介などをしているのであろうか、32歳自信満々の時である。チェックのジャケットを颯爽と着こなし、目をかっと見開き、客席に知り合いでも見つけたのであろうか。中々のオシャレである。
ジャケットは良く見ると、タイトルの文字の部分から上は、街というか港というか夕暮れの空の写真で、すべてをダークブルーの色にしてある。
ジャズが一層夜の闇の中に溶け込んで行くのが印象的な作りである。
私など、こういう暗さ・深さがある所がやっぱり好きだ。
根が暗い事がバレてしまう。

彼は、当時のジャズメンの中にあって立派な人で60年代には若手の新主流のジョー・ヘンダーソンなどと友情も持ち、斬新なサウンドとの共演で素晴らしい音楽を作って見せたのは流石である。
また、彼はニューヨークのハーレムの子供たちに音楽教育が必要だとジャズを教えていたようで、仕事だけでなく様々な事を考えながら生きていた人であった。
良い人は長生きしないものである。



確率
2011/08/30

以前、何の雑誌か忘れたが読んだ事があって、原発の事故は1万年に1度の確率だと書いてあった気がする。
余程安全なのだろうと思った記憶がある。

所が、原発の事故は86年のチェルノブイリに続き2011年のフクシマと大きな事故が2回も起きた。
小さな事故など両手で足りない。

確か、その時に一緒に読んだ内容に、当時飛び始めたボーイング747(ジャンボジャット)も同様にいかに安全かと書かれていた。

何だか方向が、開発や販売重視でかつ国の指導者たちに都合のよい時には、何がなんでも、風の向いている方向に向かざるを得なくなってくる。
市民には何とでも言いたい放題で、誘導するものである。
また、我々もそういう威勢の良い言葉で聴けば気持ちが良い。

そうやって、人間社会は、いや日本は成長してきたとも言える。
それが宿命なのだろうか?
考えると切ない。

CM
2011/08/29

新宿を歩いていると、山田電機の大きな電光掲示板からコマーシャルが流れている。
複数の若者がボランティアで明るく働いている内容で、若者よイザとなったあなたたちの力が必要だ。そのためにも普段から救命の講習に行ったり、ボランティアをして頑張って下さい、というもの。

なかなか社会の為を思ってこんなCMを流す人はいるものではないと、思わず立ち止まって感心していると、エンディングになると画面に大きく東京電力!。

いやいや、大変危険は放射能を福島の土地にばらまいてシカトしている加害者が、被害者にお説教できる立場とは、巨大な力を持った企業が羨ましい。





空間認識能力
2011/08/28

空間認識能力などと漢字で書くと、凄い能力のように思える。
何のことはなくて、地図を読み取る能力のことである。
最もらしい単語にしてある所が学問である。

確かに、車でどこかに行こうと思って地図を見てもどうしてよいか判らない人は女性に多いとされる。
男にはそういう人は少ないらしい。
地図をみて多分、地形や景色が想像出来ないのだろう。
結局は子供頃からの歩き回った遊びを通した訓練であろうか。

私は個人的にそういう能力はあると思っているが、地図も不要とばかりに旅をして歩く人もいる。
以前よく一緒に買い付けに行った近所のレコード屋は凄かった。
地図もメモも何も一切なくて、あっちだ、こっちだと歩いて、ヨーロッパ中を旅して廻るのには恐れ入った。
流石に私が忘れないように地図に記入しようとすると、覚えた方が賢明だというのには閉口した。

本屋さん
2011/08/27

最近の大型書籍店では立ち読みが許されていて、椅子といってもストールだが、そのストールがわざわざ置いてある。
休みの日など、みなさん堂々と座って読みふけっている。
良いね。

でも、その店では、買うときは他人が読んだ本を買うのか?
ならば古本価格にして欲しいな...




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