HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。

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BRUNO MARINI 3 “WEST OF THE BLUES”
2015/06/04

BRUNO MARINI 3 “WEST OF THE BLUES” LMJ 3342 (Italy)

たった今、イタリアから届いた、待望のアルバムである。
演奏はミディアム・テンポのブルースの良い雰囲気である。
演奏は彼ブルーノ・マリーニとベースとドラムのピアノレスのトリオである。
それが、全く違和感のない好演奏で、大変気持ち良く最後まで聴く事ができる。
バリトンのバリットとした音色はそのままに、聴く人のムードと気持ち良さを持続した所が驚異の演奏である。
決してムードに流れていない。
ベースの低音の音の作りが迫力がある。
兎に角、ずっと「淡々」とさせた所がミソ、聞く方は何が起こるかと耳を傾け続ける事になる。
それが不安だったり、感心したり....。
しかもナチュラルなサウンドで好印象。
最初から最後まで無駄の無いアルバムはそうそう無い。

彼の作品はベローナの当レーベルからほとんど出されている。
最も有名なものは、BRUNO MARINI 4(LMJ3333)の天使の絵のジャケットの物だが、
「LOVE ME OR LEAVE ME(3338)」等もあってしかも好演奏である。
そして、この作品というところか。
それも、80年代の演奏であるにも関わらず、良いレコードのサウンドと好演奏である。

イタリアのローカル・レーベル故の入手のしにくい作品ばかりである。

さて、このアルバム。
見ると皮ジャンを着て、サングラスをした男が赤銅色のバリトンを咥えているデザインの写真である。
あたかも、シュワルツネッカーのドドン・ドン、ドドン・ドンと聴こえて来そうなあの映画ターミネーターを連想させる勢い。
サングラスと皮ジャンと金属の塊が堪らない。
カッコ良すぎである。
ジャケの作りは、ルード・ブリンク(3340)のジャケットの広げるタイプと同様の体裁である。
写真といい、造りと言い、ソソられるジャケットである。
内側の荒い表面に、録音したスタジオである「BCF STUDIO」と大きなスタンプが押されている。
そして、ITALIAN DESIGN、 VERONA と書かれている。

新しくてもコレクター心が、ソソられるレコードという物はある。

昼食に
2015/06/03

今日は朝から雨が降った。
雨が降ったなら、カレーの新宿中村屋は空いているだろうと行って見た。
所が1時ころだったにも関わらず、10数人並んでいる。
ジジババばかりなのに、みんな元気だなと思いながら考えたら、確かここは上でちょっとしたレストランもやっていたはずだ。
エレベーターで昇って、レジのお姉さんに尋ねると、カレーはありますよ。
中村屋はカレーと言わずに、従業員はカリーというんだな。

座って注文したら、カレーのコース料理。
前菜、スープと来てはカレーが全部食べられない。
でも、せっかくだから頑張って食べた。
腹いっぱい。

しかし、ここのカレーは、色といい、濃さと言い、辛さといい、鶏肉との相性、本当にこれは日本のカレーの原点だね。
偶には食べたいものだ。


勢い付いた所で、夜は神保町の「アディロンダック」にチキン・カレーでも食べに行こうかな。



昼食に
2015/06/02

昔の写真仲間が来て、近くに昼食に行く。
彼は最近よく店に来てはレコードをちょっとづつ買ってくれる。
それは、JBL4344のスピーカーのウーウァーの張り替えをしてもらったからだ。
スピーカーが修理を終え帰って来てみたら、あまりの鳴りっぷりの良さで、レコードが断然良くなってしまった。
それで一度、売ってしまったレコードも買い直し、知り合いを家に呼んでせっせと聴いているらしい

その前は、CDでも音は十分だからと、レコードはもういいやと思うようになってきて、レコードを徐々に売り始めていたのだ。
それが、こんな事になってしまったと、レコードを売って失敗したと言いながら、嬉しそう。

レコードは良いねえ。

マイクロ・トラックのアーム、それにバリレラ
2015/06/01

先日、購入した「マイクロトラック(MICRO-TRAK)」のアーム。
カートリッジの「バリレラ(タンノイ製)」を取り付け、トーレンスのモーターのメンテナンスも終了し、セッティングしてようやく帰って来た。
初日はちょっと鳴っていなかったが、翌日聴けば、かなり部屋に馴染んできた。
オーディオはペットと同じで、初日は大人しくしているものだ。

特にボーカルが良く、女性、男性とどちらもイケル。
昇圧トランスが不要である所が大変有り難い。
中音がしっかり出て来るのがわかる。
あまり深刻なサウンドではないが、声がしっかり前に出るので、歌い手の言いたい事が伝わる。
風情が素晴らしい。
また、意外に軽視されるのだが、傷音を試す。
傷盤を掛けてみたら、ドン、ドンと言わずに、フッ・ブッとなって、大きくならないところは安心できる。
昔の良い装置やカートリッジなどは、不思議に傷音が聞きにくくないものだから。

だが、ハードバップの音はどうかと言うと、オルトフォンアのタイプBの方が、ちょっと良いかもしれない。

何故だろうと考えていたら、ハタと気が付いた。
これらをセッティングしてくれた私の友人は、ボーカル好きなので、調整時の試聴はすべてボーカル。
それならば、ボーカルが良く鳴るはずだと納得。
いや、今回は私もボーカルがよく鳴るプレイヤー・システムが欲しかったので、ちょうど御誂え向きで良かったのだ。
私は、つい6・7年前まではボーカルなどほとんど聞くことが無かったが、最近は、ボーカルを聴くようになった。そうするとボーカルを鳴らす事は、また違った難しさや趣味の楽しさがある。
良いもんだね。

今後は「線」や設置など、まだまだ調整して行けば、どう変わるか分からないが、かなり面白いカートリッジとアームである。
これでプレイヤーが3台になってしまった。
いったい3台も、どうやって置いたらいいのか?


(写真:バリレラは現在78回転用になっているが、つまみを回せば、反対側のモノ用になる
バリレラの針圧は、どれでも10g(+−2g)であろうか)



山谷ブルース
2015/05/31

この間から、ふと先日書いた「いちご白書をもういちど」のフレーズが口をついて出てしまう。
なんでかね?私はジャズ派なのに。

それで、歌いながら思うのだが、日本のフォークはこの歌を持って終焉したのではないかと思うのだ。
ついでなので、日本におけるフォーク・ブームを考えてみた。

60年代後半、アメリカのフォーク・ソングブームがあり、それに刺激を受けたのか、わが国でも日本フォークが生まれた。
学園紛争と相俟ってはどうか分からないが、なんとなく社会性を帯びた歌が世の中で注目を浴びるようになった事も大きい。
ある意味ジャズも同様で、ジャズが学生たちに反体制の音楽だと思われたらしい。
勿論、そういう私もその一人であった。

65年頃からの話であろうか。
スターは岡林信康であった。
彼は日本のフォークを広めた人である。
少ないがヒット曲は「山谷ブルース」である。
♪今日の仕事はつらかった〜 あーとは焼酎を煽るだけ〜♪
これはは良く唄った、良かったねえ。
それからヒットはしなかったが「チューリップのアップリケ」
これも断片的に間違ったメロディーながら一緒に良く唄った。
それが発売禁止だか放送禁止だと。
何がそうなのか、今もって訳が分からないが反体制的な様子が伝わって嬉しかった。

それに、高石ともや「受験生ブルース」。
若い子が勉強もしないで聴く音楽と皮肉ったのが良かった。
新宿西口フォークゲリラと報道でも騒がれ、フォーク・ブームも絶好調。
友人達は聴きに西口に出かけた。
思えば、当店の目と鼻の先で起きた出来事である。

やや遅れ、70年になって、吉田拓郎出現。
フォーク界のニュースター誕生。後は松山千春とか。
彼らは反体制ではない、政治色は無くなり歌う対象は青春であり、青春の辛さである。
井上陽水、かぐや姫などが出て来て、フォークも洗練されてきた。
「神田川」が大ヒット。貧乏臭くい所が何とも言えず良い。
私も聴けば、即あのころに戻れる今でも大好きな曲である。
75年に「22歳のわかれ」。
そして、「いちご白書をもう一度」登場。
これで、日本のフォーク・ブームは終わったのか?
どうもおかしいと思い作曲者を見ると、荒井由美。
ああ、そうかそれならば、間違いなく歌謡曲だもの。
75年がフォークが歌謡曲に飲み込まれた瞬間だったのか?

良い歌だけど、なぜ歌謡曲風なのが良く分かった。そうだったのか。
思えば、日本フォークの時代は短命だった。10年持たなかったのか?
仕方ない、時代の流れだもの。

しかし、フォークでも人を考えさせる歌は駄目だ。難しくて。

偶にはフォークも。
https://www.youtube.com/watch?v=gx9PiBYRQ2M

OSCAR PEERTSON “WE GET REQUESTS”
2015/05/30

OSCAR PEERTSON “WE GET REQUESTS” VERVE V6-8606 (USA)

彼の人気作入荷、今回はステレオ盤で。
タイトル通り、リクエストに寄るものという様子だけあってスタンダード曲が多く、さらっと弾いて、大変に聴き易いアルバムに仕上がっている。
人気のほどが伺える。

植草甚一さんの本だったと思うが、本のタイトルは記憶はない。
ただし、その内容は記憶していて、多分間違いない。
オスカーピーターソンを語る時に、必ず出て来る二つの単語があって、それは「テクニック」「スイング」だと。
ところが、この二つの単語を合わせるとピーターソンになるかと言うと、そうは行かない。
テクニックと言うのは、とどのつまりテクニックであって、それは飽くまでテクニックに過ぎない。
あまりに器用なので、それが禍でもあり、自分の器用さに抵抗する事が出来ず、三連音符、アルペジオなどでぶっ壊してしまう。
という内容だった。

結局、確か植草さんはピーターソンを、当時の何人かの評論家やマニアと同様に、決して褒めていなかったはずで、巧すぎて、自分のテクニックに溺れる人として書いていたと思う。

昔の人は厳しいな。
大体、私の一回り以上の上の世代、70歳以上とでも言うのか、そういう人たちのジャズメンの評価の仕方は特徴があって、若い時の演奏は褒めるけど、年齢が来た時の演奏をケチョン・ケチョンに貶すことが多い。
また、ピーターソン、キャノンボールなどは、必ず上手すぎて面白くないと片付ける。
それが自分たちの、通としてのスタンスという所のようである。
理由は分からないが、彼等が食うや食わずの厳しさが当たり前の戦中・戦後の時代を生きたからで、少々の残酷なことなど何ともないからであると思う。

そこにいくと、我々から下の世代は何となく、まったりと生きて来た時代なので、残酷な事は言わない、いや、言えない。
レスターヤング、ビリーホリデイ、チェット・ベイカーだって、後期の作品だってきちんと冷静に評価をするし、また、好きでもある。
若い方々はもっとその傾向が強いと思う、優しい世代である。
それは老いて行く或いは、絶頂期から落ちて行く事を、人生としてどう捉えるかという事を解っていて、リスナーとして己の事と重ねて考えることが出来るからである。
歳を取ったヤツが駄目なヤツというなら、今の自分をどうするのか?

ジャズを聴く事は人生を学ぶ事なのである。
そういう意味では、ピータ−ソンの作品群も聴いていると、人生の流れを感じさせるものがある。
私は年齢とともに、彼のピアノが好きになった。
また、共演のベースのレイ・ブラウンの演奏も見事だと、心から思えるようになった。
使っているオーディオの変遷による所は大きいかもしれないが、何十年もジャズを聴き、己の人生も下り坂になり、ツッパリも無くなり、どうでもいいやと悟ってから、やっと分かるようになったとも言える。

いや、そこまでしなくても解る方には、解る事である。

心電図
2015/05/29

病院に行って、診察が終わり先生に「何か気になる所はないか」と言われたので、「ここのところ動悸がある」と告げたら早速、心電図を取られた。
そうしたら、何処だかの線が引っ込んでいるという。
それで、「国立医療センター」という新宿区にある立派過ぎる大病院を紹介されて、診療に出かけた。
そこで、一日中24時間の心電図のマシンをセットされた。
寝ている間も心電図だから緊張した。
夜中に余計に緊張して動悸がして困った。

でその、緊張した結果は、線の乱れた大変な心電図になっているだろうと思って、結果を訊きに行ったのだが、先生は「まあ特に異常と言う物ではありません。年齢ですし、ストレスとかあまり気にしないで、普通に落ち着いて生活して下さい」だって。

落ち着いて、という所がミソか?

要は歳だから、この位は有るよという事だった。
はあー。

ジャズの本
2015/05/28

最近のジャズ関係の本が面白くない。
雑誌の「ジャズ批評」など、もう同人誌でしかない。
金払って買って読む雑誌ではない。
書く方もお金を頂いて、書くという事の重みを知らないと。貰って無いなら仕方がないか。
この間も、ボーカルの本が出たからと読めと言われて読んだのだが、なんだが白人の女ばかり紹介して、おまけにレコードをいくらで買ったとか金の話もあって、どうでもいいじゃんと、面倒になってしまった。
そう言えば、ジャズ批評にも、アメリカでレコードを安く買ったとか自慢している評論家がいた。
安く買えがそれはそれで結構だが、それを本に書く事かと、どうでも良い事をよく自慢できるなあと感心する。
それから、どこかの出版社がジャズの教科書というような本も作ったらしいが、所詮、二番煎じの感は免れない。
しっかりと取材したのかな?力が伝わって来ない。

ホントに、考えてしまう。
これは本を作っている出版社の力の無さから来るのか、それとも人のせいでは無くて、もう、ジャズが、もはや現代に対して力を失ったという事か?
現代のジャズが果たして、かつてのジャズ雑誌を読んで興奮した時と同じような、興奮を読者が得られるかと言えば、それは、何となく無理だろうと、勝手に想像してしまう。申し訳ないが。
好きな人は居るであろうが、音楽自体も仲間内のいわば「楽屋落ち」の範疇に過ぎない気がするし。

今のジャズに関する文章は、言ってみれば、一度作られた文章から、何度も書き直している、コピーを重ねた云わば再発物と言える現状。
そうだ再発では、音にも筆にも力がないんだよな。

かと言って、昔の本ばかり読んでいる訳にも行かない。

レコードの出現
2015/05/27

今、オーディオファンの間においても、これからソフトの方は一体どうなる事かと、心配があるらしい。
私のように、レコード一辺倒で、何の心配もしない人間もいるが、不安の人も一杯いる。
新しいメディアのはずであったCDですら購入者が著しく減退してしまった今、確かに不安であろう。
これからはPCだと新し物好きは、そちらになびいているらしい。
我々の世代が焦ってCDに切り替えたように。
それで、また後悔するならば、であれば昔のレコードを買えと言いたいところである。

しかし、考えて見ると、レコードの出現というのは恐るべき時代の到来であった。
それまでは、「先進国」においては何処の金持ちもパーティーと言えば必ず音楽家を家に呼んで、演奏させていたのが、オーディオ・レコードの商品の完成により、音楽家達が失業したわけだ。
英国のロックの「ラジオ・スターの悲劇」の、ヴィデオ=テレビの出現がラジオのスターを殺したという唄。
それと同様に、1920年代にレコードが出現すると音楽家達も仕事が減った事は容易に想像できる。

そのレコードは、最初は手回し蓄音機だった。
それが戦時中には電気蓄音機が登場すると、同じ78回転ながらレコードも変化し、シェラックというインド原産の虫の死骸のような材質からビニール製に替わり、針圧もぐっと軽くなり、鉄の重針圧に向かないSP盤も生まれた。
そこで、古い技術は捨てられた。ここでも仕事を失った人が出た事だろう。

次に50年に10インチ盤のロング・プレ−イングが生まれ、33回転盤が出て来ると、映画館の為の物だったのが、急激に家庭用オーディオ機器が開発された。オーディオは恐るべきことに50年代に既に完成されていたのである。
数年後にはLPも12インチ化され、高額機器があっという間に世界中に広まった。
60年の幕開けと同時にステレオ盤の販売も始まり、大型スピーカーでなくとも、安価で素敵な音に包まれるサウンドが楽しめるようになった。
LPレコード絶頂であった。
LP時代は80年代まで続いたので、40年間は安泰だったのだ。
それが80年代の終わりには、CDが出現しノイズが無いから高音質などいうマスコミの扇動で売れ始めたと思った瞬間あっという間にオーディオ界を席巻してしまった。
レコード技術にとっては大打撃。
正にレイディオ・スターの悲劇そのものであった。

ところが、その新しいと言われたCDがわずか20年で、もう終焉という事らしい。
ある高校の先生が、子供たちに聞いた所、クラスの半数はCDを知らなかったと。
一体どういう事になるのか。

ところで、レコードが出現したという事は一体どういう事だったのだろう。
エリックドルフィーの有名な台詞では無いけれど、「音楽は二度と捕まえる事が出来ない」という事が、「いえそれは嘘です」と、反論できるようになったのだ。
録音された物は大量のコピーが作られ、また、反復して聴く事が出来るようになった。
音楽家の演奏した原本は、レコードとして世界中に配られるようになって、どこでも同じ演奏が聴く事が出来た。
演奏家の芸術としても原本は消えた。
そのコピーの数は売れれば100万枚もの膨大な数になる事もある。
本物としてオリジナルの演奏は聴かなくても、そのコピー商品は、それなりに価値をもったのである。
いや、あるいはオリジナル演奏を超えたのである。
すなわち、工業や商品が、芸術を飲み込んだのだ。
音楽の芸術はレコード無くして成り立たなくなったのだ。
生の本物の演奏は、余り意味も持たなくなったとも言える。

私はちょうどその20世紀に生き、その姿をずーっと眺めて来た。
特にジャズと言う音楽は、まさにレコードの出現・発達ともにと歩調を合わせてやってきた。
そこにはオーディオ技術の進歩もまた大きな要素であった。
その両方を、同じ時代に生きた事は、個人的に言えば大変幸せだったと思う。
大変エキサイティングな変化の時代の体験であった。

勿論それに続くロックのファンも同じ様な幸せ感をお持ちの事と思う。

思えば20世紀というのは急激な進歩の時代だった。
まあ、ココカラ先はもっと変化が激しいに違いない。
只、それが進歩かどうかは怪しい。

知り合いのクルマ「mini」
2015/05/26

知合いの車

知合いは機械関係の会社を経営している。
その彼の、かつての若かりし頃の愛車「Mini」の写真。

イギリスのMiniが好きで乗り継いだのだが、このMiniは2台目の所有車だったとの事。

そもそも、大学の受験にも全敗し受験勉強も諦め、父親の会社に就職し、働いてお金貯めると決心した所、父親が大いに喜んで、それならと買ってやるぞと、Miniを買ってくれたのだと。
最初のMiniは、白のMini1000という型番であった。
それに乗っていたのだが、その後、どうしても初期のモデルに乗りたくなり、イギリスに修行して日本で開業した人から、買い直したとか。
いわゆる、"Mini Cooper "それも初期の「MK-T」というモデルで、フロントグリルが丸いのが特徴であった。

札幌の修理屋さんから走ってきて、真っ直ぐに友人の喫茶店に行き、店の前で撮った貴重な写真だという。
しばらく大事に乗っていたそうだ。

これが写真の車である。

写真が無いと言うので、探し出したらハルズの日記に掲載したいから探してくれと言っておいた。
ようやく出て来たと言って送ってくれた。

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