HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。

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髭を生やした
2016/10/24

白内障の手術のあと、目に水が入ってはいけないと顔を洗う事を禁止されたので髭も剃らずにいた。
そのまま、1週間、2週間と過ぎてしまった。

そうしていたら髭に対する愛着も出て来て、そのままにしてある。
しかし、最近、髭が長くなってきたら、何だか肌がチクチクする。

そろそろ、このまま行くか、それとも剃ってしまうか決めないといけない。


ROLAND KIRK “The Return of the 5000 Lb. Man”
2016/10/23

ROLAND KIRK “The Return of the 5000 Lb. Man” WARNER BS 2918 (USA)

私の好きなアルバムが入荷。
こういうのを聴くと、ジャズって良いなあといつも思う。
このアルバムは1976年、彼の最晩年の2・3枚の内の一つである。
それなりに、彼の作品には「素朴」さ「したたかさ」が混在していて、ある意味確信犯的な信者にウケるサウンドを感じているのだが、晩年の作品もまた どれがどれと捨てがたいものがあるので、一枚だけを取り上げるのも憚られる。
だが、私が考える一枚は特にこれだと言いたい。

彼は77年に脳梗塞で亡くなったのだが、発売当時は、これが半身不随になった直後の作品だと言われていたのだが、最近の書物を読むと、倒れる直前の録音と言われている。しかし、何故そんな事が気になるかと言うと、この作品を聴いた人は、だれでも彼が悟りの境地に到達したかのような気がするからである。
ジャケットを見るとタイトルが「帰って来た5000ポンドの男」となっていて、メートル法に直すと2トンの男とはいったい誰の事かと考えてしまった。
彼の銅像の事なのかと思ったり。
ウルトラマンの事かと思ったり。なんだろう?

また、一曲目の「Eulipions」というのはどういう意味なのだろうと考えてしまったが、表紙を読めば彼が考えた架空の国であるらしい。その辺りから、どうも死後の世界を意識したような気配がある。
そう想いながら聴けば、この作品は、アメリカの音楽の歴史そのものではないか?
そうか、彼は今まで生きて来て、体験した自国の音楽を、彼の中で解釈しそしてこのアルバムに残した。
冒頭のEulipionsはテナーサックスをじっくり聴かせる。その音色は世界トップ・クラスなのだが、彼はそれをちょっと刺激的にしてある。そこが何とも言えず凄い。考えて見ればテナーサックスこそジャズの代表的楽器である、サックスあってのジャズとも言える。そこにMCが入ったり、コーラスがあったり、まさにアメリカの音楽エンターテイメントのワン・シーンそのものである。
次のSweet Georgia Brownにはウォッシュボード(washboard)=洗濯板が使われる。すなわち、黒人ジャズエンターテイメントに欠かす事の出来なかった楽器でもあったし、黒人音楽の歴史でもある。
Loving youはミニー・リパートンの曲で世界的にヒットした。アメリカ70年代の代表的な曲を彼が取り上げても不思議はなく、その彼女が76年にガンと報じられたのだから、彼が彼女の音楽をピックアップしても不思議はない。
Goodbye pork pie hatはミンガスの代表曲でもある。ミンガスはジャズの歴史的にも音楽的にも代表者であり、またローランド・カークも在籍した事でもあり、ここに取り上げる必然もあったのだ。
そして、Giant stepsはコルトレーンの代表曲、コルトレーンこそアルバムがスミソニアン博物館に収納されている現代ジャズの頂点の一人でもある。
こうしてつらつらと考えると音楽の歴史を、彼は編纂して聴かせてくれたのではないか?

そうして思えば、彼は黒人の音楽の造詣が深く、その歴史を直接聴いてきただけに、こうしてサウンドに表す事が出来た。
このアルバムがジャズとそれを取り巻く周辺の音楽シーンを、取り上げて聴かせ、彼の集大成としたのではなかろうか。
こうして聴けば、彼の音楽は、やっぱり大した物なのである。

栗きんとん
2016/10/21

歩きついでに伊勢丹に寄ったら、中津川の川上屋の「栗きんとん」が売られていた。
早速、購入。
だれか来た人とお茶でも入れて一緒に食べようかと思っていたのだが、その前にあっという間に一人で食べてしまった。
明日はもっと大きい箱のを買おうかな。

栗きんとんは栗を砂糖と炊いて、茶巾絞りにし、形を整えたもので、岐阜県中津川市の秋の名物である。

最近は、何処のデパートにも一年中、どこかの栗きんとん屋が入っているので、別段珍しい訳ではない。
しかし、今頃の時期になると中津川でも名店と言われる店の物が、各デパートにちょこちょこと特別に出される。
たしか、ナンバーワンと言われる「すや」のは高島屋に出るような気がした。

秋は、柿、きのこ、栗と出てくる。
これらの秋の物は、味が薄味で甘過ぎず、しかもほのかな薫りがある物が多い。
実に日本的で好ましい。
秋は本当に良い季節だ。

昨日は、アディロンダック
2016/10/20

昨日の夕食は、アディロンダックへ行った。
そこで、コーヒーのマシンを買ったので、淹れ方の勉強をしているとお嬢さんが言うので、それならばと一杯頂いた。
熊さんの絵を書いてくれた。
買ったばかりだと言うのに、なかなかの出来栄え。
ママさんが、膝が悪くて店に出られないからと、彼女が前向きに頑張っている。
料理の腕前もママさんに負けないし、仕込みも頑張ってデザートのケーキも一生懸命に作っている。
若い人が頑張っている姿は、見ていると気持ちが良い。

唄、故郷の空
2016/10/19

ずっと前から、新宿でも夕方5時(だと思う)になると、街角のスピーカーから曲が流れてくる。
住宅街にね。

夕空晴れて 秋風吹く
月影落ちて 鈴虫鳴く......
たしか「故郷の空」という曲。

あれを聴くと、私などなんとも淋しい想いに捉われて、悲しくなる。
音が悪いので、余計に空しくなる。
新宿でなくても、旅先などで聴いて日には、もうこの街に来たことすら後悔するほどの淋しさ、わびしさ。

そう思っていたのだが、他人に言う程でもないと、長年 黙っていた。

ところが、今日店に来られた年配の仲良しが、突然、その話をし出して、「あの曲の侘しさは言いようが無くて、自分など、もう死ぬのかと思う」という。
もう少し明るい曲にならない物かと。

確かに、私もそう思う。
大体、あんな曲を一体誰が選択したのか?
まあ、どうでもいい話だけどね。

やる
2016/10/17

私はよく、演奏したことを「演る」と書くことにしている。
その「やる」というのが、日本語の中では大きな意味がある。

口に出せば「やる」である。
しかし、その道の専門においては英語のcanはすべて「やる」であり、その漢字はその都度、担当により異なるはずである。

仕事帰りに一杯「飲る」
目を「遣る」というのもあるし、まさに「遣る」というのもある。
ようし景気づけに今日はうなぎでも「やる」かというのもある。
映画の中の悪役が「手前ぇら、やってしまえ」いう殺人も「殺る」である。

まことに日本語の「やる」は範囲が広い。
かつ、良い言葉である。
面白いものだね、日本語は。

カートリッジの事
2016/10/16

私が使用しているレコード・プレイヤー関係は、3台のトーレンス124であるが、アームとカートリッジの組み合わせは、まずSME3009にはEMT・XSD15、これはステレオ用である。
つぎにモノラル用としてオルトフォンのアームSMG212にA/Bタイプという古めのもの。これは8gの針圧で50年代のオリジナル盤にはなかなかの相性である。
それから、タンノイのバリレラをちょっと改造し、78回転SPとモノラルを切り替えて使用出来るようにしている。これは太い音で男性ボーカルなど実に上手く鳴ってくれるが、女の声が若干太くなってしまう事もある。

しばらくメンテをしていなかったので、オーディオファブさんがこられたので、ちょっとチェックとメンテナンスをお願いすることにした。

雑談の時に、「タイプA/Bが、曲によってもうちょっと高音が伸びて欲しいなあと思う時があってね、これはなんとかならないの?」と私が言うと、
彼が「いやいや、そういう音の製品なんだから、そういうものとして受け入れないとね」と答える。
まあ、確かにその通りである。
次に「EMTのカートリッジが、もうちょっと甘い音色で鳴って欲しい時に、素っ気ない音になってしまうのだけど、これはなんとかなるでしょ?」と聞くと、
「いやいや、EMTはそういう性質の音だから」
とまあ、そのとおりで若干甘味に欠ける部分がある。まあ、使用目的から考えればそういう事である。

レコードによっては、我がカートリッジでも全く問題がないものもあるが、しかしその反面、私の好み合わずちょっと感じが違っているものがある。
そのためにわざわざ、3台のプレイヤーを揃えているのだが、それでも、まだ足りないものがある。
だからと言っても、プレイヤーをもう一台という訳には行かない。

しかし考えてみれば、オルトフォンの当時の製作者が「これは、ここまでの性能で良し」としたわけであるから、すべてのレコードにマッチした製品など存在しない。
カートリッジの音は「あちらを立てれば、こちらが立たず」という所が非常に大きい。
従って、得手不得手が必ず存在する工業製品だという事も出来る。
その取捨選択の妙がオーディオの楽しさでもある。

その反面。
いい加減にして、諦める事が肝心な趣味でもある。
私は、ある程度まで行ったら、諦める派で、自分のシステムの欠点が分かっていても、他人にあれこれ言われても しばらくは絶対に他の製品に手を出さない。
そうしないと、いつまでも自分の好みが一定しないし、お金ばかり掛かってどうしようもないから。

欠点も認めてこそのオーディオの楽しさである。
しかし、面倒だな。

息子に子供が
2016/10/15

息子に子供が誕生した。
私もようやく御祖父ちゃんになった。
嫁の最初に出来た子が子宮外妊娠で、危険な状態となり、片方の卵管を取ってしまっていたので、もう出来ないものと半分諦めていたので、今回のおめでたには夫婦とも非常に喜んでいた。
それが切迫早産の恐れがありという事になり、2か月ほど寝て暮らさなければならなくなり、嫁はもちろん、手伝いに来てくれたお母様にも大変な、ご苦労を掛けた。
生まれたとの知らせを受けた時は、私もなんとも嬉しい限りであった。

息子ももう40歳になる。
ちょっと遅い方ではあるかもしれないが、父親になった。
この先はどうなるかは分からないが、息子には嫌われようが、疎まれようが、我が息子がこの世に生まれた事は素晴らしい。
その瞬間だけも男として、「男がい」があったということである。

若い夫婦に、この曲を贈る。
「Child is born」

ついでにyoutubeの映像も
https://www.youtube.com/watch?v=F1jTqWLrzjI

田舎にひとりで住んでいた
2016/10/13

田舎にひとりで住んでいた姉が、亡くなった。

2・3日玄関の鍵がかかっていないのを近所の人が不審に思い、中を覗いた所、風呂場で倒れていたという。
風呂に水を入れようとして、屈んだ所で倒れたものだという。脳梗塞の疑いがあった。
その知らせを受けた時、ちょうど私が白内障の手術の入院と重なり、葬儀に行けなかった。
姉の葬式に出られないとは、きょうだいとしてなんとも申し訳のない事態であった。

姉は年に数回、いろいろな物を送ってくれていた。
ちょっと前にも果物を送ってくれたばかりであった。
お礼の電話をすると、息子と私を間違えて、息子のようにして話をしている。
それというのも、ひとり息子が東京に出て行ったのはよかったが、知らない内に、結婚をしてしまい、また知らない内に、子供も生まれていた。
息子が結婚してしまった事が癪にさわったのか、疎外感をかんじたのか、許せないと言うのだった。それで疎遠になってしまったのだが、心は淋しかったのだ。
私は、あんたの息子などと結婚してくれたのだから、感謝こそすれ、反対する理由も無いから、仲直りしなさいといったのだが、ついに距離を置いたままになっていた。
その内に姉も年齢と共に、大人しくなり息子と仲良くなると思っていたのだが、そうなる前に亡くなってしまったのが残念である。

姉は、わが家がもっとも貧困な時に高校を卒業し、それにもげず自力で働きながら東京の大学の夜間に通い、教師の資格を取り、田舎に戻って教師をした。大人しいが頑張り屋だった。
それが田舎風の考えに固まった母が、女が嫁に行かずにいると恥じだからと早くと、結婚を急かされ、母が近所の人に頼んで話を進めてしまい、せっかくの教師の道を2年で辞め、長野市の方に嫁いでしまった。
所が旦那の商売不振などで旦那は急死となったが、長野市に留まって女手ひとつで子供を育てたのだが、子供が東京に就職をしてから、また母が女の一人暮らしはカッコ悪いと、無理やりに田舎に連れ戻した。
それにも文句を言わずに従い、姉は淡々と、母が死ぬまで面倒をみていたのだ。
そう言う意味では、不幸な人生とは言わないまでも、われわれ兄弟の犠牲になったような境遇の姉だった。
わたしなど、本当に申し訳ないと思わずにはいられない。
きょうだいの中で、最も優しい人が、最も先に人生の終焉を迎えてしまった。
私は男なのに、何もしてあげていない。
姉ちゃん、許してくれ!

平等に
2016/10/12

夜遅く、ちょうどシナトラの「in the Wee Small Hours」を聴いていたら、眠くなって来た。
そういえば、睡眠というものは人に取って最後の幸せではなかろうか。
よく三大欲望というものがあると昔から話に聞かされてきた。
性欲、食欲、睡眠欲だと。
世の中、民主主義で平等だというけれど、平等なものはひとつもなく、考えてみれば、食欲といえどその内容は不平等の限り、性欲の相手などまったく以て不平等である。

その三大欲望の中で、睡眠こそがまったく平等であり、万人に神様が与えて下さった、たった一つの平等なのである。
眠りを貪ることが、犯さざるべき、万人に与えられた最後の砦なのだ。

思えば、人の平等は、睡眠以外にはありえないのである。
政治家やマスコミや公務員のいうところの民主主義の平等などは、まさに幻想であり、絶対にありえない事である。

実は人には、もっとその先があって、永遠の眠りというものさえも保障されているのである。
そこまで考えると、社会の不平等やら金持ちに対する妬みなど、忘れて安心して落ち着いて「眠る」事が出来るというわけだ。

お釈迦様の「涅槃」というのも横になって寝ているね。

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