HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。

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DIANA DORS “SWINGIN’ DORS”
2013/10/08

DIANA DORS “SWINGIN' DORS” PYE PLP-1028
(AUSTRALIA)

少し前の8月3日の日記に、彼女のアルバムを掲載した。
それは英国オリジナル盤である。

ところが、蛇の道は蛇とよく言ったもので、本家に惹かれてこんな珍盤が入荷。
それはオーストラリアで作られたもの。
ジャケットを眺めて見ると、外観は別段変わった様子はない。
だが、うやうやしい扉をあけると、あらま、びっくり。
中の写真が違う。

オジサン長生きはするものと大喜び。
真面目にやって来て良かった。
「正直の頭に神宿る」とはこの事。神様の贈り物だったのだ。

写真で比べて頂きたい。
オーストラリアは彼女が正面を向いていて、これでもかと美女の度合いを際立たせているのであった。
こんなレコードもあるのだ。

それから数日後。
ある超マニアの方から連絡があり、ニュージーランド盤をお持ちだとか。
所がそれは、写真がオーストラリア盤の裏焼き(左右逆向き)であると。
写真を送って頂いたので掲載することに。
ちなみに、ニュージーランド盤のは写真が若干縦長なのだそうだ。

しかし、内ジャケの話だけで盛上がるなんて、当店はホントにマニアックだな。
こんな事でいいのかな?

(写真 左はイギリス、中央はオーストラリア、右はニュージーランド)

BILLIE HOLIDAY “STAY WITH ME”
2013/10/07

BILLIE HOLIDAY “STAY WITH ME” VERVE MG V-8302 (USA)

昨日は「COME FLY WITH ME」で一緒に飛んでもらったので、今日は「SATY WITH ME」で一緒にここに居てもらおう。

この時期、54年から55年は彼女が意外に頑張った時で、54年はヨーロッパツアーを敢行し成功させる。
帰国後はライブ活動も行い、ニューポートフェスティバルにも出演した。
また録音も積極的に行った。
これらのレコーディングの記録は、「A Recital By Billie Holiday」、「Lady Sings The Blues」、「Velvet Moods」57年には「All or Nothing at All」で聴く事が出来る。
だが、当アルバムや、「A Recital By」「All or Nothing at All」など、ジャケットの作り方がどう贔屓目に見ても、美人に見えない。イカン!
いかにも、売る気がないと言わんばかりではないか。
VERVEともあろう会社が、商売熱心なノーマングランツが、一体どうしたのであろう?
不思議でならない。
オジサン許さんと一人で怒っても、50年前以上も昔の話で、しかも海の向こうの国の事。
ここは大人しく引き下がって。

ところで、このアルバムのメンバーは、Charlie Shavers (tp)、Tony Scott(cl)、 Budd Johnson(ts)、Billy Bauer(g)、と渋い所が揃った。
Charlie Shaversはここでは大活躍でスイング感と哀愁がでる。
Billy Bauerは優しいバッキングに好感が持てる。
彼女の頑張りに、仲間のジャズメンが盛り上げる。
彼女の人生のしのぎを思いながら、しみじみと一人で聴き進む。店は私だけ。
いよいよ最後の曲「Do Nothin' Till You Hear From Me」。
エリントンの作曲のこの曲を、彼女は自分だけにある曲のように歌う。
凄味さえ感じさせる声に、昔の可愛らしさも時々を顔の覗かせると、なんとも言えない気持ちになる。
このまま、好調な昔の可憐な声に戻るのではないかという気にもなる。
トニースコットのクラリネットのソロ辺りで、なんだか涙腺が緩んでしまう。
彼女の歌は重く、精神的にも上がったり下がったりさせられ、鬼気迫る歌い方に圧倒される。
私などに彼女の人生など解るはずもないが、彼女はやっぱり歌の天才で、やっぱり世界一だったと心身ともに疲れ切って、聴き終わった。

50年代は落ち目の時期に入ると言われるが、今こうして聴くと、そういうのは簡単だが、そうでもなく、彼女に凄味が加わった時期だったという事にした。
人間、天才とていつまでも子供らしい可憐な声が続くはずもない。
これでも十分世界チャンピョンだ。

出世か?仕事か?
2013/10/05

私も長い間サラリーマンをやっていた。
仕事は楽しかった。
40歳過ぎた頃。
ちょっと可愛がってくれる人がいて、ある日海外で飲み会があった時に言われた。
「おい池田、君は出世に生きるか?仕事に生きるか?どっちだ」
「はい?」
「あのなサラリーマンはな、仕事か出世のどちらかだ、両方は無理だ」
「いい仕事をしたら、会社は解ってくれるのではありませんか」
「そんな新入社員のような寝言を言うな、君が良い仕事をしたとする。仕事に真剣に向き合うと出世の事を考える暇はない。逆に出世が念頭にあれば仕事をしている暇はない。君もどちらか選べ、どっちでも俺は道を作ってやる」
「そういう物ですか。わかりました私は仕事にします」
「そうか仕事が好きなら思いっきりやれ、俺は協力する。だが後から出世と言われても遅いからそれは覚悟しとけ」
という話があった。

私が、会社人生を「仕事」で良しとすると言ったのは理由があって、新入社員の時から、遅刻、サボリ、勤務態度、ラフな服装等々、社内で良い評判が一つもない事を自分で知っているからこそ出世は無いと思っていたからである。

この話はその後、会社人生の様々な場面で私の脳裏に顔を覗かせ私の頑張りになったり、後悔したりしながら付いて回った。会社を辞めるまで。
今つくづく、ありがたい言葉だったと思う。

無い子に...
2013/10/04

私が子供の頃。
近所のお婆ちゃん方の会話の中で、時々出て来た話。

「無い子にゃ泣かんが、ある子にゃ泣く」という言い方。
無い子と言うのは、いないという意味は勿論、早くに亡くなってしまった子ども含む。
ある子と言うのは、今存在する我が子である。
そのまま、子供がいれば苦労させられる事、ばかりであるという意味である。
子供が居なければ、苦労はないという母親達の本音である。

少子化の今と違い、子供の数が4〜5人が当たり前だった。
子供が沢山いれば出来不出来がある。
中にはしょっちゅう近所とトラブルがあったり、勉強が出来なくて恥をかいたりする。
逆にちょっと出来が良ければ良い学校へ生きたいと言い出すので、余計に学費が掛かる。
出来の良し悪し関わらず、子供がいれば、苦労が絶えない。
そういう事を全部ひっくるめて「泣く」という言葉に集約されるのである。

みんな貧しかった頃の話である。

ベビーカー
2013/10/03

朝のテレビで、ベビーカーは畳むべきか、そのまま突入すべきかとやっていた。
報道なので賛否両論が出される。

私はヨーロッパなどで、最初驚いた事はベビーカーどころではなく、アンティックな大きな乳母車が乗り込んでくることであった。
それも一緒に手伝わないと若いお母さんに怒られるという経験もした。
周囲の人は手伝い、嫌な人は早めに逃げると言う様子である。
成程と納得した。

しかし、そのまま日本も右へ習えとは行かない気がする。
それは電車の混み具合が全く違う。
あっちは朝でも余裕がある。
それが東京など死に物狂いの混雑、どこにベイビーカーが入る隙間があるというのだ。
譲り合いなどいう言葉は、優しさは余裕がある人の話しである。

最近、デパートなどには車いす・ベビーカー優先、というエレベーターがある。
ところがボタンを押して、最初に来たのが、優先のそれという事がある。
それに先日も乗っていると、途中でドアが開いた、するとベビーカーを押した若いお母さん「誰も降りないのね」と中に向かって一言。
それが驚く事でもなく、時々そういうお母さんがいらっしゃる。
隙間があっても、お母さん方はそうおっしゃる。
あんた達は乗るなと。

空港のチェックインにおいても、子連れの自分を優先しないと文句たらたらのお母さんも良く見る。
この紋所が目に入らぬかと、バギーを突き出して、大きな態度で車内を見渡す。
しかし、それは無理というもの。
もっと弱者の老人がいるのだから。

バギーの重さも、大変さも、オジサン・オバサン達は良く分かっている、故に、電車の中では譲るつもりでいる。
しかし、買い物のデパートは次まで待て。
所詮、遊びの事なのだから。
いつでもどこでも、何が何でも、わたしが優先ではオジサンもカチンと来るわな。

10月か...
2013/10/02

9月が終わった。
私にとっては9月というのは、夏の終わりでもあるが、なにより当社の決算。
一年が終わったという意味合いが一番強い。

この不景気の中、まだ決算は出来ていないものの、ギリギリでクリアしたような気がする。
今年もやっと出来た感じである。
一期(年)が終わると、もうヘトヘトという状態である。

実感としては、年々不景気になる。
アベノミクスも一向に好転する様子も無い。

これで消費税が上がれば、不景気は本物だ。


サーバー異常
2013/10/01

当店のホームページの管理は、神戸に住んでいる昔の会社の仲間に依頼している。
そのサーバーが、サイバー攻撃というのか、某国の激しいアタックを受け、本日は朝から一日中、開くことが出来なくなってしまった。

サーバー管理者である友人に電話すると、「今朝の9時から始まったのだが、嵐の過ぎ去るのを待っているだけだ」とあっけらかんとしたもの。

私の日記のどこかに尖閣列島の文字があったために攻撃目標となったのか、あるいは無差別の攻撃にあったのかは、はっきりはしない。
なにしろアタックというのは、1秒間に何万回もの凄いが回数、サーバーに接続してくわけ。
そうすると、もうサーバー管理者もどうすることも出来ない。
見守るしか方法がないという。

夜、9時になってようやく収束した。
12時間に亘る、猛攻撃も過ぎ去った。

しかし、ウチも某国から狙われるとは、立派に成長したとも言えて可笑しい。
あ、びっくりしました。

改めて、中国は日本と戦争状態であると思っているらしい事を納得。
もうひとつの隣国もそういう気持ちである事は間違いない。

しょうがない国だ。

BENNY BAILEY の名演
2013/09/29

BABY DOUGLAS & AMERICAN NEGRO JAZZ IN EUROPE “ECHOES” SUPRAPHON SUA 15633 (CZECHO)

整理していたら、こんなアルバムが出て来てしまった。
このアルバム、只のオムニバスでは無かったはずと思い出してしまったのが運の付き。
しばしの間、試聴となり仕事も中断。
最初はLEO WRIGHTの名演奏だったはずと思いながら聴いていくと、いや違った、これはBENNY BAILEYの名演奏だったのだ。
解って、オジサンやっとホッとした。

この時1964年、メンバーは当時東欧でエライ作品の多いLEO WRIGHTをはじめ, BENNY BAILEY, KENNY DREW, LOU BENNET,ANDRRE CONDOUANT、等に歌手のBABY DOUGLASという面々だった。
チェコはプラハにおいてジャズ・フェスティバルの為にNEGRO JAZZ BANDを作った。
ジャズフェス故に歌あり、ブルースありデキシーあり。
所が一曲だけ特別な一曲、それがベニー・ベイリーのトランペットでしっとり、じっくりソロが堪能できる、名演奏があった、という訳。
ジャケットの見える場所にはひとつも彼の名前が出て来ないので、忘れてしまう。

彼はサイドメンの演奏ばかりでリーダー作が少ない。
そんな彼の貴重なリーダー作である、たった一曲ではあるが堪能して頂きたい。
演奏曲は、「I CAN’T GET STARTED(邦題:言い出しかねて」
ケニー・ドリューのピアノとの共演である。
丹念に音を選びながら、曲の持ち味を生かしトランペットを吹くと、高音まで綺麗に上がって行く。
時折、彼の得意で特異なピィーという音が入ると、おっ、ベニー・ベイリーが吹いているわい、と私のようなファンは嬉しい。
ピアノは伴奏として支え続ける。
曲は5分ちょうどくらいの良い演奏時間。

なんだか、拾い物をした気持ち。
嬉しくなって、仕事に身が入るわい。
といいながら3回聴き直し、しばし、コーヒータイム。

いや、レコード屋って本当にいい!
さて仕事だ、もう一度だけ聴いて...。

プロ野球で
2013/09/28

プロ野球・楽天が優勝し、またエースの田中将大投手が22勝連続勝利投手だと、ニュースでやっていた。
解説によると、これは往年の西鉄の稲尾和久をしのいだ記録だと。
1957年稲尾の20連勝を上回るプロ野球新記録となり、またシーズン22勝は1980年の日本ハムの木田勇以来33年ぶり。

しかし、私が子供の頃は30勝もするピッチャーが普通にいた。
旧国鉄時代の金田は 31勝。
稲尾など42勝もした。
1シーズンでマー君の2倍働いた事になる。
勿論登板は、60試合から80試合も投げる、昔はダブルヘッダーもあったので、それこそ球場に足を運べば、必ず見られるという話である。
だが、それらの記録はすべて1900年代の記録である。
2000年からは一切そういう記録はない。

こうして考えると、登板して全部勝っても、やっと20勝。
幾ら頑張っても20勝がせいぜい。
そういう時代になったという事に、エライ感心してしまった。
感心。

プロ野球も選手寿命を考える時代になったという事。
現代のプロ野球の投手は、間隔を7日で登板しているのだ。
一週間も休みを取っては休み過ぎだろ、と言いたいが言ってはいけない。

昔、相撲取りの事を「一年を7日で暮らすいい男」と言われた事もあった。
その相撲取りも、今は6場所即ち90日も働かないといけなくなった。
そのいい男よりも、実働日数が少ないとは、羨ましいプロスポーツ。
よほど、いい男なのであろう。

ところで、当時、稲尾投手は「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた。
マー君は、野村監督に「マー君、神の子、不思議な子」と呼ばれた。
さて、どちらが神に近いのか?これからも興味津々である。

ドリフト走行
2013/09/27

2・3日前、京都で登校中の児童の列に車が飛び込んで重症者が出た事件をやっていた。
ドリフト走行をしたから、事故になったと、どこのテレビ局でも報じていた。
ドリフトで子供の列に突っ込むとは、何たる不始末、私が許さんといきり立った。
立ったは良いが、さて、どうしてどうなったか、良く見ないといけない。
情報を集めて見ないと。

見取り図があったり、証人がいたりしたので、そこから推測。
一時停止の交差点から、左折発進スタート。
 (一時停止をしたか、しなかったかは、ここではあまり意味が無い)
発進時にアクセル踏み過ぎ。
後輪が高回転になり、その為、左にハンドルを切った分、右にケツが出た、即ち後輪が右に流れる。
所が左の壁に激突しそうになった為、慌ててハンドルと右に切った。
すると車は当然右に振り返した事になり、車が右を向くと同時に、お釣り来てケツが出た、即ち左に後輪が流れてしまった。
とっさの事で、制御不能となり、そのまま道路に突入。
道路脇に飛んだ。
という次第であろうか。

ドリフトのような状態ではあるが、ドリフト走行ではない。
ドリフトであればどういう風に走ったか。
交差点に進入する際、後輪を流しながら侵入。
(解りにくければ、ラリーカーの走行シーンを思い出して)
ハンドルを右にカウンターを当てて、車は左に向いて居ながら、斜めの体制そのまま、道路の方向に進行。
やがて車の体制も進行方向に向かって真っ直ぐに。

事故の場合は、最初の入りがドリフトではなく、何も考えることなくアクセルを踏み、思った方向に車が向かなかったので、焦ってハンドルを回した、そして最後にアクセルを抜いた。
それで、車がハンドルを切った方向、すなわち右に突入してしまった。
コーナーで急にアクセルを抜くと、車は余計に切り込んで行くものだから。
単なる、運転の未熟。
ブレーキを踏む余裕も無かった程の未熟さだったのではないか。

こんな道路でドリフトをやろうとしたならば、失敗したとしても、もっとマシな軌跡をたどったと思われる。
それを、ドリフト、ドリフトと叫ぶテレビの解説者たち。
今後も交差点などの事故があるとドリフト、ドリフトと連呼するのだろう。

要するに交差点において、スピードオーバーでハンドルを切りそこなった車の事故はすべて、ドリフト状態になっているはずで、従来はドリフトとは言わず、運転ミスと言っていた。
ドリフトと言えば視聴者が納得する。
これも時代の流れか。

ところで、ドリフトとはどういう走りの事を言うか、知っている人は少ないので、説明すると。
まずコーナー侵入前から車の向きを変えて侵入することをドリフト走行といい、
コーナーを回った後に、アケセルを踏みながら、ケツが流れている事を、パワースライドという。
今はそれを総称してドリフト走行と言うのだが、この違いは、走っている人に取ってはエライ違いで、はっきりと区別される、テクニックなのである。

と言っても、街中でのドリフトは危険運転として交通取締の対象となる。
あくまでもスポーツとしての話。
良い子は真似をしないように。

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